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リンゴに見えるか?
5月の連休も終わった。朱里と亮二は大学3年になっていて、僕の入院生活も、同じだけの年月が経ったことになる。東京から1時間ほどの場所にあるこの町に、朱里は月一ぐらいで帰ってきていた。
ざわざわとした、都会の一人暮らしの気楽さと冷たさを、朱里は僕にしてくれる。それは僕が経験したことが無いもので、この先も分からないことだけど、朱里の話を、僕は楽しみに聞いていた
亮二はほとんど姿を見せない。あいつは10歳のころに、僕の家の隣に引っ越してきた。生まれたところではないからだろう、この地に郷愁を感じないことが、あいつをこの町から遠ざけているのだと思う。
そんな亮二が、この連休にやってきた。
その日はあまり体調が良くなくて、朝から何度か嘔吐を繰り返していた。
亮二が来た時も、僕はステンレスの洗面器に顔を埋め、みぞおちの奥から沸き起こってくる、不快な塊に襲われているところだった。看護師さんが、僕の背中をさすって、介助してくれていた。
「あ、悪い・・・」
部屋に入ってきた亮二は、バツが悪そうに言葉を濁した。
「あ・・・いや、大丈夫だよ」
大きく息をつきながら、僕は亮二を見上げた。
「ちょうど、落ち着いてきたところだから・・・大丈夫」
亮二に言葉で、看護師さんには目で合図をして、看護師さんは洗面器を持って病室を出ていった。
「大丈夫そうには見えないけどな」
亮二はそう言いながら、隅にある折り畳みのパイプ椅子を開き、背もたれを正面にして僕の枕もとに座った。
「まあ、大丈夫じゃないから、入院してるんだけどね」
半分だけ斜めに立ち上がったベットに、背中を預けて息を整えた。
「こうやって会うのは、久しぶりだね」
「そうだな。ちょっとそこまで来たついでだ」
「ちょっとそこまでで、はるばる東京から来たのかい」
「うるせえなあ」
「半年も会ってないから、心配で来たって、言ってもいいんだよ」
「ふん。じゃあそういうことにしとけよ」
亮二はニヤリと小さく笑って、僕もそれに応えられるように、笑顔を作った。
「本当は、朱里も一緒に来るはずだったんだが、あいつ、熱だしちゃってな。さすがにそれで病院はマズいだろって」
そう言いながら亮二は、自分のカバンをあさると、赤い縫い目の付いたボールを取り出して僕の手のひらに、ボールを置いた。
亮二の腕は、僕が知っているよりも二回りくらい太くなっていた。良く見ると、たくましい、スポーツ選手の体つきだ。あいつ、ほんとにドラフトにかかるかもしれない。そう思った。
「なにこれ?」
「リンゴに見えるか?」
「形は似てるけど、食べられそうにないね」
ボールを持ち上げて見てみると、何やら書いてある。
『がんばれ、負けるな! 朱里』
そりゃ、この前聞いたよ・・・朱里は、意外としつこかったりするんだよな。
「お前の誕生日に打った、ホームランボールさ」
ああ、そういえば、そんな話してたのを思い出した。朱里は、こればっかりだね。と口にしながら、ボールをクルクルと手の中で回して見つけた、もう一つのメッセージを読んで、指の動きが止まった。
『勝ち逃げは許さないからな! 亮二』
「なんだよ、勝ち逃げって。もう少し、誕生日のお祝いらしいコメントはないのかよ」
「ああ、いたわって元気になるなら、いくらでもそうする」
亮二の口元は緩んでるけど、目は真剣だ。
「朔。お前がマウンドに立たなきゃ、朱里は選べないんだ」
ふう、と僕は大きく息をついて、手首のスナップでボールを空中に上げようとして、止めた。
「分かってる。悪いと思ってるよ」
「悪かない。悪かないけど・・・」
亮二は僕の手にあるボールと、僕の手を両手で包んで、
「東京で、待ってるからな」
そう言い残して、帰っていった。あいつなりに、僕を励ましてることは分かった。そして、別の理由があったことも。
手元に残されたボールを見つめた。それを掴んでいる手と腕が、亮二とは比べ物にならないくらい、細くなった。実はもう、ボールを空中に放ることも、できないんだ。
ごめんな、亮二。
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