木曜日の雨

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木曜日の雨

 月曜日に、朔からメッセージが届いた。木曜日に、1日だけ一時退院できるらしい。 「丁度試合の日だな」  コーヒーカップに口を付けて、スマホの画面を見ながら、向かいの席に座っている朱里に話しかけた。同じように、自分のスマホでグループチャットを見ていた朱里は、弾けるような表情で顔を上げた。 「うん、ほんとだね。よかった、ちょっとずつ、治ってきてるんだね」 「そうだな。試合、見に来るかな」  相槌を打ちながら、俺がメッセージを打ち込むと、すぐに返事が返ってきた。 「見に行くぞ! だって。やる気満々ね」  朱里の声は、心なしか上ずっているようにも思えた。それだけ喜んでいるってことだろうと思った。でもそれは、俺の気持ちも湧き立たせてくれる、魔法の声だ。 「自分が投げる訳でもないってのにな。ヘボなところは、見せられなくなったな」 「うん、そうそう。全打席ホームランで、朔を驚かしてやりたまえ」 「簡単に言うなよ」  俺の苦笑いと、朔の返信が重なった ”うん。下手なスイングだったら、ヤジ飛ばすよ”  今までのあいつなら、言わなかったようなことだ。あいつも浮かれてやがるな。 ”亮くん、全部ホームラン打つって言ってるから、大丈夫だよ!” 「おいおい」  俺の目の前で返した、朱里のメッセージに、苦笑いした。 「お願いします。君ならできる」  グッと朱里は手のひらを丸めて、ほがらかに笑って見せた。 「死力を尽くします。じゃ、行くか」  朱里の笑顔に答え、俺はテーブルに置いてある伝票を取って立ち上がった。全打席ホームランを、朔のために、か。  試合の前日、大雨が降っていた。室内練習を終えた俺は、黒いこうもり傘を玄関に立てかけて、部屋に戻る。明日もこの調子だと、試合は中止かもしれない。スマホで明日の天気を調べると、降水確率は50%となっている。  まあ大丈夫か。もし試合が中止になれば、ドームにでも行けばいいか。 ”あんたたち、どんだけ好きなのよ”  グループチャットに、朱里のメッセージが入っていた。笑いながら打ち込んだんじゃないかと思った。  野球が一番、朔と語り合えることなんだ、朱里。俺はポツリと呟いていた。  試合当日。昨日の雨が、嘘のように晴れ渡った。いい天気だ、むしろ暑くなって、朔にはしんどくなるかもしれない。ポツポツと小さな雲が浮かぶ空を、陽の光を右手で遮りながら見上げた。  午前中に球場に入り、ウォーミングアップで軽く汗を流した。朔は朱里と一緒に来ると言っていた。昼からの試合だから、試合開始には間に合うとのことだ。 「全打席ホームランねえ」  ランニングをしながら、呪文のように俺は呟いていた。  アップを終えて、一度ロッカールームに戻ると、電話の呼び出し音が鳴っているのに気づいた。ロッカーを開けると、ちょうど電話が鳴りやんだ。  誰からだろうか? スマホの画面をタッチして、着信履歴を見る。朱里からだった。着信履歴に、不在着信の赤いマークが並んでいる。  朱里がこんなに不在を残したことは、今までにない。  折り返そうと画面をタッチしようとしたら、また朱里からの電話が鳴った。胸騒ぎを感じながら、俺はスマホを耳に当てた。 「もしもし・・・」 「・・・・・亮ちゃん、聞いて」  張り詰めた糸が伸びて、今にも途切れてしまいそうな、弱弱しい声だった。どうした、と返すのがやっとだった。 「ごめん。今日、試合行けなくなった。何も言わなくて私が居なかったら、亮ちゃん心配すると思うから、大事な試合前だけど、伝えとくね・・・・・」  それから先、朱里と何を話したか、覚えていなかった。覚えているのは、試合開始まで、その場から動けなかったこと、試合で俺は、全打席ホームランを打ったという、記録が残ったことだけだ。  その日の夜、俺は高校のグランドを訪れた。バックネットに取り付けられた、街灯の明かりが薄く伸びて、ホームベースに残る足跡に、僅かな陰影をかたどっている。  バッターボックスの地面を足で慣らして、俺はバットを構えた。  光の差さないマウンドを、刺すように見つめる。だがそこに、いつものピッチャーの影は、現れなかった。いつまで待っても、現れなかった。 「くそおおおおおお!!!!」  バットを叩きつけて、前のめりにうずくまる。あいつは・・・あいつは・・・  涙がこみ上げて、声を詰まらせた。 「俺たちの勝負は、どうすんだよ。朔・・・」  パラパラと、細いく柔らかい雨が降り出した。荒れたグランドを癒すように、優しく、煙のように降り注いだ。  朔。涙が渇れなくて、持て余しそうだから、もう少しだけ、降り続いてくれないか?  お前が住んでたこの街を煙らせて、朱里のことも、包んでやってほしい。  お前のように、限りなく優しい風が吹く、その日まで。
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