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忘れられるはずない
慣れない紺色のスーツ姿で、背の高いオフィスビルと、街路樹に挟まれた歩道を急ぐ。コツコツと、ヒールとアスファルトが規則正しく音を立てる。
目的のビルに入り、エレベーターで8階に降りると、私と同じ色をしたスーツの男女が数人目についた。
案内係のスタッフさんがすぐに声をかけてきて、椅子に促されて順番を待った。
しばらくすると、私を含めた4人が名前を呼ばれて、別の部屋に通される。待ち受けていた数人の大人たちからの質問に答え、1時間ほどして部屋を出た。
案内係のスタッフさんから、これからのことを聞いて、私はオフィスを後にした。
オフィスビルを出ると、梅雨明けの、本格化しだした日差しが私を襲った。まぶしさに目を細めながら、呼吸をするのも窮屈なジャケットを脱いで、いつものコーヒショップへ歩き出す。亮くんに、全打席ホームランを誓わせた、あの場所へ。
店に入ると、先に入っていた亮くんが、手を上げて居場所を教えてくれた。小走りに、テーブルへと向かう。店員さんとすれ違った時に、カフェラテを頼んで。
「ごめん、遅くなった」
と、亮くんの正面に座る。そんなに待ってないよ、と言った亮くんのグラスは、ほとんど空になっていた。亮くんは、ウソが下手なんだよね。
「どうだった? 面接」
ウソを見破られたことに気づかない様子で、亮くんは私に尋ねた。
「うーん、どうだろね。全力は尽くしました」
「そっか。商社だっけ、受けたの」
「うん、そう」
「海外勤務があるんだっけ。行きたいのか?」
ほとんど氷だけになったグラスを持ち上げて、僅かに残っている黒い液体を、亮くんは勢いよく吸い込んだ。
「うん、そうだね」
と答えた私も、実のところ、どうなのか分からなくて、面接で模範解答はできても、自分の本心を、亮くんに話すことが出来ないでいた。
そうか・・・と亮くんは、小さく呟いた気がした。私もさっき届けられたカフェラテに口を付ける。
お互い言葉が続かず、妙な沈黙が流れた。こうして会うのは、あの時以来で、1か月ちょっとしか経ってないのに、何年かぶりに再開したような、妙なよそよそしさが、私と亮くんの間に流れた。
「全打席ホームラン」私は唐突に口にした。
いぶかしがる目で、私を見ている亮くんに、私は続ける。
「ここだったね。約束したの」
「そうだったっけ。そうかもな」
「約束、守ってくれたんだね。えらいえらい」
「どうやって打ったか、全然覚えてないけどな」
亮くんは、小さく笑った。優しい笑顔だった。
「そっか。そういうもんなんだ」
「俺ぐらいになれば、そういうもんらしいぞ」
しれっとしたキメ顔で言う亮くんの様子が、なんだかおかしくなって、思わず笑った。
つられて亮くんも、表情をほころばせた。そしたらもっと可笑しくなってきて、涙が出るくらい、2人で笑った。
「まあ、覚えてないのは、あいつのせいだ」
「うん、朔のせいだね」
あのバカ・・・・・今度は私に微かに聞こえるように、亮くんは言った。そして続けて
「海外に行きたいのも、朔のせいか?」
亮くんの言葉に、私はカフェラテを飲みかけて、息が止まった。
「朔を忘れたくて、どこかへ行きたいのか?」
私は水滴に覆われたグラスをゆっくりと置いて、下を向いて首を振る。
「そんなんじゃないよ。朔を、忘れられるはずないもん」
また、よそよそしくて、重苦しい沈黙が流れた。朔が居ないと、私たちはこんなにも、ぎくしゃくした関係になってしまうのは、どうしてだろう。
「ああ、俺だってそうだ。あいつは大事な親友だった。忘れられるはずがねえ。忘れられないんだ。どこに行っても」
私は顔を上げた。亮くんは、固唾を呑んでるような、真剣なまなざしで、
「あいつの代わりはできない。だけど俺はここに居るから、俺を頼ってくれ。そうじゃないとないと、俺は朱里を守れないんだ」
私は小さくうなずいた。それが精一杯の返事だった。
知ってるよ。亮くんは昔から、頼りにしていたんだから。
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