虹のたもとに

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 虹のたもとに

 僕の目に映る空は、青くて、深くて、狭いものだった。  窓枠から切り取られた故郷の町は、僕の思い出を呼び起こさせるように、変わることなく、営みを奏でている。  今日は少し気分がいい。  覆っていた布団を押しのけて、ベットから体を起こし、体をねじって、両足をだらんと床面に向かわせた。    重力に従って、真っすぐに降ろせばいいだけだ。それでも、不安を覚えた体はついていけず、傍にあるアルミのポールを左手で握って、僕の自立を助ける。  ふと、上目遣いにポールを見た。ぶら下がているパックは、木の枝のような筋を作って、中身の残量を知らせている。  「あと少しか・・・」  なんとなく呟いてみて、足を引きずりながら、窓のそばに立つ。故郷の街と僕を隔てているモノは、色彩を持たないガラスと、あとは、なんだろう。  ポツポツと窓を叩いてた雨音は、いつの間にか消えていた。    右手をガラスに押し当て、グッと力を込めようとした。弱り切った僕の力では、ビクともしないのは分かってる。でも、力を込めた。 「(さく)・・・」  背中の方から、声がした。聞きなれた、優しい声だ。僕は、伸ばした右手を下におろして、ゆっくりと振り向いた。できるだけ、笑顔で。 「やあ、朱里(あかり)。久しぶりだね」  長袖のシャツにロングスカートの朱里は、険しい顔つきで僕を見ている。 「起きて大丈夫なの?」 「ああ、今日は調子がいいんだ」  柔らかくしようと努めた、僕の顔を見て安心したのか、朱里はやっと小さく笑った。 「そっか、よかった。最近はずっと調子いいの?」 「ああ、おかげさまで。少し外に出たいくらいだよ。付き合ってくれる?」 「うん、いいよ。ちょっと肌寒いから、カーディガン羽織った方が良いよ。あと、帽子も」  おう。朱里の気遣いに応えて、上着と帽子をかけてるハンガーに、足を引きずらせた。朱里はすっと歩み寄って、上着をハンガーから外して、僕にかけてくれる。  前のボタンを留めて、帽子も手に取ると、すっかり髪の毛が抜け落ちた頭に、ニットの丸い帽子をかぶせた。  ふう、と僕が一息つくと、朱里は僕の手を握ると、アルミのポールと朱里に支えられて、僕は足を踏み出した。ゆっくりとした足の運びに、朱里が併せていることは、何度繰り返しても、やり場のない想いを沸き立たせた。  屋上に出ると、まだ少し冷たい春の風を、頬に感じた。  この空気を吸い込むと、朱里や亮二が住む街へと繋がっているように感じる。濡れて黒く変色したコンクリートを踏みつけて、町が見渡せるところまで歩いた。 「亮二は、元気かい?」  朱里が雨に濡れたベンチを、タオルで拭いてくれた。ありがとう、と腰掛けながら、僕は支えてくれている朱里に尋ねた。  僕が座り、落ち着くのを待って、朱里は答える。 「うん、元気よ。朔も連絡取ってるでしょ?」 「ああ、まあね。この前の試合でも、打ってたね」 「知ってるじゃない」  知ってるよ。でも、朱里の口から聞きたかったんだ。  胸の中のもやっとしたものを、言葉にせずに飲み込んだ。  朱里はベンチから立つと、鉄格子に手を置いて、遠くの街並みに向けて云う。 「順調にいけば、春からは4番で、頑張ればプロも見えてくる」 「あの大学の野球部で?」 「うん。そう、亮くんは言ってた」 「本気かよ。六大学でもないのに、スカウトが見に来るかな」  僕は、朱里の背中よりも、もっとその先の、お互いの親友に向けていた。朱里が振り返って、小さく笑う。 「俺も頑張るから、お前も頑張れって」 「もう頑張ってるって、言っといてよ」 「知ってるわよ。でも、もっと頑張れ」 「死んじゃうよ、これ以上頑張ったら」 「それもダメ。亮くんのライバルが居なくなっちゃう」 「ワガママすぎるよ、朱里は」  皮肉に笑みを添えて、僕はアルミポールの助けを借りて立ち上がった。手を貸そうとする朱里を制して、鉄格子を掴む。 「でも、がんばるよ。あいつとの勝負は、まだ途中だから」 「うん。野球やってないと、朔はカッコよくないもん」 「なんだよそれ。もうちょっと、病人を励まそうよ」 「ふふ、そうね。がんばれ、負けるな」 「全然気持ちこもってない」  そう言うと、僕と朱里は顔を見合わせて笑った。少し冷たい春の風と、柔らかい日差しが心地よかった。  それから朱里に、色んな話を聞いた。東京での学生生活。亮二の試合のこと。バイト先の先輩の失恋話。メッセージでやり取りしてた話だけど、朱里の声で聞くと、途端に色鮮やかに思えた。  もう、あれもこれも欲しいなんて思わない。今日の出来事を額縁に入れて、部屋に飾れたら、それでいい。朱里が笑っていられるのなら、それでいい。  あっ、と朱里が弾んだ声を上げて、町の方向を指さした。そこには、大きくてはっきりとした虹が浮かんでいた。 「すごい、虹だよ。それも、こんなに大きくて、ハッキリしてる」 「ああ、すごいね」  僕も、感嘆の声を上げた。今まで見たことのないくらい、大きくて、色濃くて、まるで橋のような虹だった。力強く伸びた虹のたもとは、朱里が暮らす東京の街に、降りている。  いつかこの橋を渡って行けと、神様は言っているのだろうか。
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