庭師の息子

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 ある貴族の屋敷に、庭師として住み込みで働いている一人の少年がいた。その少年にはちゃんとした名前があるというのに、父親が谷底へ転げ落ちて死んで以来、誰からも名前で呼ばれることがなかった。少年のことを誰もが「庭師の息子」と呼んでいたのである。  少年の仕事は、早朝から夕暮れ時まで黙々と草を刈るという過酷なものだった。その上、少年に与えられる食事は、家人が食べ残したパンの欠片や、鍋底で冷たくなったスープだけ。賃金は一切貰えない。それでも少年は、父親が死んだあとも自分を追い出さずに屋敷に住ませてくれている主人に、少しでも恩返しをしようと、一日も休むことなく働いていた。  そんなある日、少年は主人の言いつけで市場へ買い物に出かけた。滅多に屋敷の外へ出られない少年にとって、買い物は唯一の楽しい時間であった。市場の賑わいに少年の心は弾む。周りを見渡せば、色とりどりの野菜や、見たこともない魚の数々。そして目を見張るほど鮮やかな花たち。目の前に現れた一際綺麗な紅い薔薇に、少年は思わず手を伸ばした。途端、その手を叩き落とされ、少年は驚いて視線を薔薇から上に移すと、 「あんた庭師の息子だろ? せっかくの薔薇が枯れちまうよ」  迷惑そうな顔をした年配の女店主が、少年に向かってシッシ、と手を振った。少年は、叩かれた手の持って行き場に困り、どうしようもなく泣きたい気分になった。それは言われ慣れた言葉だったのだ。  少年の家系は代々庭師を生業としており、花から忌み嫌われる血統を継いでいたのだ。なんでも、何代も前の庭師が大規模な花畑を刈り取って以来、どんなに花の種を植えても芽が出てくることはなく、咲いている花を愛でようとしても、その花に触れた途端に萎れてしまうのである。そのため、少年の父親も祖父も、庭園を造る仕事からは遠ざかり、ひたすら草木を切り取る作業に専念してきたのだ。少年も然り。花を植える作業は任せてもらえず、雑草をひとつ残らず引っこ抜いたり、伸びすぎた草木を体裁よく整えるだけの毎日なのだった。 「……そんな悲しそうな顔しないでおくれよ。こっちだって商売なんだ。……そうだ!」  花屋の女が、突然何か思いついたような声を出して、手を叩いた。 「この花ならタダであげるよ」  得意気に言いながら、女は重たそうな体を屈ませ、足元近くに置いてあったのであろう花瓶を手に取った。花瓶の中に入っていたのは、少年が今まで見たことのない、不思議な色をした一輪の花だった。 「なんだか嫌な色だろ? 誰も買ってくれなくってねぇ。店頭に並べると、客足が遠のいちまいそうでさ。隠してたのさ」  花弁は変わった色をしていた。群青色の上に金粉が塗されたような模様をしており、花の中心は紅茶色をしていた。少し毒々しい色に思えた。 「持っていっていいよ、どうせ枯れる運命だ」  有無を言わせない勢いで、女は少年に花を握らせた。 「ほら、もう行った行った」 「ありがとう」  少年は礼を言い、頭を下げた。  少しの期間でも良いから花を育てたいと少年は思う。花の色に文句を言えるような立場ではなかった。  少年は主人から頼まれた買い物を済ませ、急いで屋敷へと戻った。  屋敷の入り口にたどり着いた時には、足はがくがくと震え、顔も体も汗だくになっていた。 「良かった! 萎れていない!」  少年の手のひらに包まれたその花は、元気に空を見上げており、幸運にも根っこがついていたのだ。これならもう一度、土に植え直してあげられる。  少年が触って花が萎れなかったのは、この花が初めてだった。 「早く植えてあげなくちゃ!」  少年は居ても立ってもいられなくなり、息を弾ませながら、屋敷の裏にある大きな庭へと走った。  赤や紫の薔薇が敷き詰められた庭園の中に足を踏み入れると、少年より若干背の低い少女の後ろ姿が見えた。背中にかかった金色の髪がフワフワと揺れ、紫色のドレスの裾がヒラヒラとはためいていた。 この屋敷のお嬢様だった。 「あ、あの……」  少年はおずおずと声をかけたが、お嬢様は知らん振りをしたまま、薔薇の花びらをちぎっている。しばらくその背中に「お嬢様」と声をかけ続けたが、とうとう一度も振り返ってはくれなかった。これでは、「花を植えさせてください」と許しを請う事も出来ない。少年は諦めて、庭園の門を出た。  少年の相手をしてくれる人は誰も居なかった。屋敷の中にも、外にも。少年とまともに話しをしてくれたのは、三年前に病気で亡くなった母親と、一年前に死んだ父親だけだったのだ。  少年はしょげてしまいそうな気持ちを奮い立たせ、勝手口から屋敷の中に入り、急いで自分の部屋に向かう。 「早く水に浸さなくちゃ……」  日が暮れたらもう一度庭へ行こう、と少年は思った。余っている鉢と土を少しだけ拝借して、こっそり自分の部屋で花を育てようと決めたのだ。  その翌日から、少年には新しい習慣ができた。窓辺に置いた鉢植えに向かって、朝は「おはよう」と挨拶をし、就寝前には、その日起こった出来事や、自分が考えた事、思ったことなどを包み隠さず話したのだった。誰かに聞かれたら不気味がられてしまうので、少年の声はとても小さなものだったけれど。  一日の大半を庭仕事と、花に話しかける時間に費やす。そんな日々が数年続いた。低い背もぐんぐん伸びて主人の身長を追い越し、細かった手足や首筋も筋肉で覆われ、少年の体はすっかり逞しくなった。いくら頑張っても一日かかってしまっていた仕事も、半日で終らせられるようになった。力仕事も難なくこなせるようになった。ただ、花を咲かすことだけが、少年にはできなかった。 「なんでだろうな? お前はこんなに長く咲き続けているのに……」  夜、窓辺の花に向かって少年は話しかけた。あの日花屋の女から貰った花が、衰えを知らずに咲き続けていた。色褪せてもいない花弁に、背を伸ばしきった茎。その姿を見るたびに、少年の心は癒された。この花だけが、少年を拒まなかったのだ。  少年がそろそろ寝床につこうと思ったとき、部屋の窓がガタガタと大きな音をたてた。年に何度か襲来する嵐だった。少年は急いで着替え、庭園の門へと走った。一面に咲いた見事な薔薇が、強い風に吹かれたせいで斜めに傾いている。その時雨まで降り出した。 「大変だ……!」  ここに咲く薔薇は、主人やその夫人、そしてお嬢様の大のお気に入りだったのだ。雨避けの布を取りに行こうと踵を返したとき、庭園の門に誰かが走ってきた。 「これを使って、早く!」  強風で乱れた金髪に手を当てながら、お嬢様が少年に近づいてきた。シーツぐらいの大きさの分厚い布だった。慌てて少年はそれを受け取り、一面の薔薇に被せようした。 「待って、この花だけ……」  一段と鮮やかな紫の薔薇を指差して、お嬢様が少年に向かって言った。 「この花だけ、根元から抜いてくれる?」  少年は戸惑った。自分が触ったら、この美しい薔薇が枯れてしまう。だからと言って、お嬢様の命令を断るわけにもいかない。 「私が頼んでいるのよ。あなたが触って枯れたとしても怒ったりしないわ」  お嬢様は、薔薇を好いてはいたが、自分の手を汚してまで救おうとは思っていなかった。この庭園に来たのも、夜会が退屈で嵐に晒されてみたいという酔狂からだった。そんなことも知らず、少年はお嬢様の言葉に感謝した。ずっとずっと触れてみたいと思っていた薔薇に、やっと触ることができるのだ。初めての許しだった。  枯れないでと願いを込めて、少年はその薔薇の付近にある土を丁寧に掘った。根元から引き抜いた薔薇は、瑞々しいままだったので、少年は胸を撫で下ろし、喜んだ。呪いが解けているのかもしれない、と希望が湧く。 「良かったね。枯れなかったわ」  お嬢様は微笑みながら、少年の指から薔薇を抜き取った。 「あなたみたいに、自分の部屋で育てるの。楽しみ!」 「なんで知って……」  少年が目を見開くと、お嬢様は笑みを深くしながら答えた。 「あなたの、蜂蜜色の髪と瞳……。いつも綺麗だって思っていたのよ?」  言葉の意味が解った途端、少年の心臓はうるさいほど大きく鳴り、顔は耳まで真っ赤になった。少年は、今までお嬢様に無視されてきた事などいとも簡単に忘れ、彼女の金色の髪や、真っ青な瞳の方がずっと美しいと思った。 「また話しましょうね!」  そう言って、お嬢様は庭から出て行った。  少年の着ている木綿のシャツが、突風に煽られ帆のように張っている。その滑稽な姿を笑いながら、お嬢様は屋敷へと走り去った。  嵐が去った翌日から、少年の生活は一変した。お嬢様と毎日庭で談笑するようになったのだ。とりとめのない話だったが、お嬢様の透き通った綺麗な声を聞いているだけで、少年は幸せな気持ちになる。  そして、少年が薔薇を触っても枯れなかった事をお嬢様が周りにしゃべったため、少年には近所の屋敷から仕事の依頼が来るようになったのだ。少年はそれを喜んで受けた。主人はあまり面白く思わなかったが、それを許していた。やるべき仕事を成してから少年は他の屋敷へ出かけていたし、なにより少年が貰ってくる駄賃が魅力的であった。主人は少年が稼いだお金を、預かるという名目で横取りしていたのだった。それほど、この屋敷の財政が逼迫していたという事なのだが。  午前中は自分の住む屋敷で仕事をし、午後には近所の屋敷で庭仕事をする。その合間を縫ってお嬢様とお話をする。そんな日々が続き、窓辺の花との挨拶やお話が少しずつ減っていった。  少年は有頂天になっていた。市場の花屋へ行っても、前のように邪険にされることもないし、近所の人々からはもう「庭師の息子」とは呼ばれなくなっていた。一人前の庭師として認められている。草を刈るのは誰よりも早かったし、花も美しく咲かせることが出来るようになっていたのだ。少年は、お嬢様のおかげで呪いが解けたのだと思っていた。あの日「薔薇を触っても良い」と言ってくれたから。少年はお嬢様のことを好きになっていた。  そんなある日の夜、少年は主人の部屋に呼び出された。 「お前を雇いたいと言っている人がいるんだ。急な話だが、明日の早朝、ここから出て行って欲しい」  突然言い出され、少年は言葉を返すことが出来なかった。青ざめた少年を面白そうに夫人は見つめている。相変わらず、この屋敷の人々は少年に冷たかった。お嬢様だけが少年の拠り所だった。そういえば今日は一度も彼女の顔を見ていない。 「あの……お嬢様は……」  お嬢様とだけは離れたくない、と少年は思った。 「お前は私の娘のことが好きなのか? 最近よく話しているようだが」  眉を顰めた主人に尋ねられ、少年は一瞬戸惑った後小さく頷いた。嘘をつくことは出来なかった。 「庭師の分際で……!」  主人の隣に座っていた夫人が、突然激昂して立ち上がる。そんな夫人の肩を撫でながら、主人は厳しい声で言った。 「今、娘は高熱で寝込んでいるんだ。今から山に行って薬草を取ってきてくれるか?」  咄嗟に思いついた嘘を、主人は真面目な顔を作って口にした。少年が真面目であればあるほど、少年を騙すのが楽しかったのだ。主人も夫人も根っからの貴族であった。青ざめた少年に追い討ちをかける。 「危ない状態なんだ。もし薬草を取って来てくれたら娘をやろう」  その言葉を聞いた少年は、弾かれたように踵を返し、屋敷の出口へと走った。屋敷では主人達が笑い転げている事も知らずに。山にはそんな薬草など無かった。無理難題を言って、少年に娘を諦めさせる事が目的だったのだ。  少年は点々と建つ屋敷の灯りを頼りに、ひたすら山の方向へと走った。その途中、市場の通りにさしかかり、誰かに声をかけられた。 「あんた! そこの庭師の!」  自分が呼ばれていることに気がつき、少年は立ち止まって後ろを振り向いた。 「どうしたんだい? こんな時間にランプも持たずに……」  店仕舞いをしている花屋の店主だった。心配そうな顔で、少年の顔を見つめいてる。 「山に行くんです。薬草が必要なんです」  少年が答えると、女は訝しげな顔をして「薬草なんて山にはないよ」と言った。 「私もたまに山へ行くけど、ここ数年薬草なんて拝んだことないよ。諦めな」  女の言葉を聞き、少年は息を呑んだ。 「さっさと屋敷へお帰り。こんなに暗いんだ。山なんかに入ったら朝まで出てこれなくなっちまうよ」  心配の色を濃くした表情で女が畳み掛ける。少年には、女が嘘を言っているようには思えなかった。だからと言って、主人の言葉を疑うわけにもいかなかった。 「でもご主人様の言いつけなんです。それにお嬢様が……」  突然、苦しんでいるお嬢様の顔が脳裏に浮かび、少年は居ても立ってもいられなくなる。 「心配してくれてありがとう」  女に礼を言い、少年はまた走り出した。後ろで女の声がした。  ――花に水はやったのかい?  一瞬足を止めそうになり、少年は自身を戒めるように頭を振った。今は花の心配どころではなかった。お嬢様を助けたい、と少年は強く願った。  花屋の忠告を振り切って山に登ったものの時間が刻々と過ぎていくうちに、少年の心は不安と猜疑心で一杯になった。山は月の光のおかげで、暗闇というわけではなかった。それなのに、薬草らしきものを一本も見つけることができない。少年は幼い頃に父親から、薬草と雑草の区別の仕方を教えてもらっていたので、薬草を見過ごすわけがなかった。  足腰は疲労のせいで思うように動かなくなっていた。それでも、肩で息をしながら先に進む。薬草を持たずに屋敷に戻る事は絶対に出来ない、と少年は思っていた。吐く息は白く、全身は寒さで痺れていた。朦朧としながら足を動かしているうちに、少年は意識を失った。  少年が意識を取り戻した時、空は薄明るくなっていた。どこからか鳥の鳴き声も聞こえてくる。少年は、自分が固い土の上で仰向けになっている事に気がついて、慌てて起き上がり足腰を軽くはたいた。その時、少年の背中にどしん、と何かがぶつかってきた。びっくりして後を振り向くと、金色の髪の毛が視界に入った。 「お嬢様……?」  驚きの余り声を震わせながら少年は、俯いた少女の顔を覗き込んだ。すると、少女が勢いよく顔を上げた。その拍子に水滴が少年の顔にかかった。 「お嬢様……?」  お嬢様は泣いていた。真っ青な瞳からは涙が溢れ、長い睫はびっしょりと濡れていた。 「なかなか戻ってこないから……」  その一言で、少年は全てを理解した。主人や夫人、そしてお嬢様も、自分の事を謀っていたという事を。それでも少年の口からはお嬢様を責める言葉は出てこなかった。この、お嬢様の涙まで嘘だとは思いたくなかったのだ。 「ごめんなさい」  お嬢様の声はか細く震えていたが、少年の耳にははっきりと聞こえた。  二人で山を下り、屋敷へと歩いていると、また市場で花屋の店主と顔を合わせた。店にはきちんと花が揃っていた。 「こんなに朝早くから大変ね」  お嬢様が声をかけると、女はふふ、と意味深な笑みを浮かべた。お嬢様の声が聞こえなかったとでもいうように、女の視線は少年だけに向いていた。 「もうお別れだよ。庭師の少年」  突然の別れの言葉に、少年は返す言葉を見つけられなかった。この花屋の店主は、少年が花に触れられるようになってから、親しく話しかけてくれるようになっていた。 「あんたの花は枯れちまったからね。もう私がここにいる意味もなくなったんだ」  その言葉に少年はハッとした。昨日、一度も花に水をやらなかった事を思い出し、一刻も早く屋敷に戻りたくなった。 「もう遅いよ。あの花は枯れちまった。何でか分かるかい? あんたが愛情を注がなくなったからだよ」  少年は唇を噛み締めた。女の言うとおりだった。仕事は忙しく、お嬢様と過ごす時間に夢中になっていて、花への愛情は薄れていた。あんなに可愛がっていたのが嘘のように。 「あなたは何でそれを……」 「あの花は私の仲間だよ。あんたの先祖が刈った花畑の花さ。何代も続けて呪うのも酷だと思って、お前の父親や祖父さんに一度だけチャンスをやってたんだよ。反省しているのなら許してやろうと思ったんだ。なのにあんたの祖父さんはあの花に向かって、くだらない願い事をしてきた。金が欲しいってね。叶えてやったけど、綺麗に使い切っちまってそれっきり。父親の方も馬鹿だったよ。あの花を気持ち悪いと言って受け取らなかった。仕方が無いから、何か願い事はないか聞いてやったら、子供が欲しいと言ったんだ。……そしてあんたが生まれた」  女は一つため息をつき、続ける。 「人間ってのは愚かなもんだ。願いを叶えられると知った途端欲張りになる……。あんたの父親は、また願いを叶えて欲しいと山に登ってあの花を探し続けた挙句、谷底にまっさかさまだ……いい加減にあんたの代で呪いは解こうと思っていたから、わざとあの花が願いを叶える花だとは言わなかった。そのお陰であんたは、知らず知らずのうちに、利口な願い事をしたんだ。あの花を出来るだけ長く育てたい、と。あの花が咲き続ける限り、あんたの願い事は叶う」  少年を哀れそうな目で見つめ、女は最後にこう言った。 「でももう終ったようだ。あんたは自分の願い事を忘れて、花を育てる事を怠った。花が与えたものは全部返してもらうよ」  言い終わるや否や、女は一瞬で姿を消した。蜃気楼のように花の香りが漂った。  少年とお嬢様は、あまりにも現実離れした出来事に、呆然と立ちすくむ。 「花の精……かしら」  気の抜けた声で、お嬢様が少年に話しかけた。  信じられないと思いつつ、少年は不安に襲われていた。焦燥に駆られ、目の前に並ぶ花に手を伸ばし、触れた。すると、少年の指に触れた花はみるみるうちに元気を失い、萎れ、かさかさに乾いた。緑色の茎は茶色に変色し、鮮やかだった花びらは砂のように粉々になり、さらさらと落下した。  その一部始終に、少年は声にならない悲鳴をあげた。足元が崩れていくように、少年の体は揺れ、力なく地面に膝をついた。正気に戻ったお嬢様が少年の隣に座り込み、少年の顔に手を這わせながら、明るい声を作って言った。 「ねえ、このまま私たち、駆け落ちしましょうよ。今家に戻っても、あなたは他の屋敷に売り飛ばされちゃうわ」  突拍子もないお嬢様の提案に、少年は目を見開く。嬉しくて涙が滲みそうになったが、浮かれていられる立場じゃないと、少年は自身を戒めた。 「花を育てられない庭師と一緒になったって……」  庭師の仕事は、全てをこなさなければならない。どんなに草木を綺麗に整える事が出来ても、花を植えたり触る事が出来なければ、半人前と見なされてしまう。 「私が花を植えるわ! あなたは草を刈る役。それでいいじゃない?」  思いもよらない言葉に、少年は喉を詰まらせた。胸が締め付けられるような、苦しいのに心地良い感覚に襲われる。 「花の魔法が解けても、私はあなたのことが好きよ?」  お嬢様は、お日様のように邪気のない笑顔を少年に向けてきた。  それから二人は、お嬢様が屋敷からくすねてきお金で船に乗り、異国の地へと旅立った。夫婦として庭師の仕事を営み、贅沢とは言えないが、不自由のない暮らしができるようになった頃、二人は子供を一人授かった。この子の前にもいつか花の精が現れるのだろうか? と庭師の男は時々考える。その時がきたとしても、自分達は子供に何も言うまい。いつか願って欲しいと思う。「花を育てたい」と。
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