9人が本棚に入れています
本棚に追加
夕方というのは、店が一番混む時間帯だというけれど、この辺りはそれに当てはまらないらしい。目抜き通りから外れた道では、それも当然か。
喧騒を遠くに聞きながら自宅アパートに向かって歩いているとき、ふとコーヒーの匂いが鼻に届いた。
この道を通るのは随分と久しぶりだったが、コーヒーショップができたのだろうか。
地面に落としていた顔をあげて視線をさまよわせると、数メートル先に灯りが見えた。
黄色みがかった光は、LEDの真っ白な光とは違う温かみがあり、足がそちらへ向かう。蔦が這う赤茶色の煉瓦造りの壁に、レースのカーテンがかかった大きめの窓がひとつ。古めかしい印象の木製の扉には、営業中の札がぶらさがっている。
黄昏古堂
蔦が絡みついたプレートにある文字は、店名だろうか。
窓の向こうは薄暗く、雰囲気を伺い知ることができない。外観と、ほのかに漂うコーヒーの香りからすると、レトロ調の喫茶店といったところだろう。
コーヒーには縁がない。連れがいるならまだしも、ひとりで未知の扉をくぐることには抵抗があり踵を返す。しかし、それを呼び止めるように声がかかった。
「どうぞ、開いてますのでご遠慮なく」
寿宏よりは年上の、三十歳にはなっていないかと思える男性。
目を引いたのは服装だ。洋風の店構えとは対照的に藍色の作務衣を着ており、日本茶が似合いそうな装いである。
男が身を引いて、開け放った扉へ手のひらを向ける。
オレンジ色に光る店内に唾を呑み、寿宏はおそるおそる中へ進んだ。
アンティーク調の店内は、時空を超えて過去へ飛んでしまったような既視感をもたらす。
店内を見まわしながらゆっくりと歩いていると、ガランと大きな音が鳴って肩が跳ねた。どうやら扉の上部に取り付けられたベルの音だったらしい。金属が錆びついてしまったような重い音は、落ち着いた店内の雰囲気に合っているように感じられた。
目隠しの衝立を挟んで小さめのテーブルが並び、入口に背中を向ける形で椅子が一脚ずつ置かれている。表から見た大きな窓の傍には席はなく、低めのチェストが置かれていた。窓越しにちらりと見えたのは、ここだったらしい。
「窓際には席を設けていないんですよ、すみません」
「いえ、大丈夫です。ひとから見られるのは、得意じゃないので」
曖昧に笑って答えると、男は柔らかな笑みを浮かべて「お好きな席へどうぞ」と告げると、自身はカウンターの奥へ進んだ。
寿宏は壁際のテーブルを選んで座る。
テーブルには紙ナプキンの束とシュガーポット。そして、二つ折りの冊子。
紺色とオレンジ色がグラデーションを作った表紙にはなにも書かれていないが、これがおそらくメニューだろう。見開きのページに写真はなく、文字だけが並んでいる。
トーストやサンドウィッチといった軽食に、ケーキが何種類かあるようだが、肝心のコーヒーはといえば、ひとつきり。
ブレンドコーヒー 四一〇円
それだけしか載っていない。
コーヒーには詳しくないけれど、そんな寿宏だって知っている名称が、ひとつも載っていない。
変わってるなと感じつつも、食べ物のほうに目を向ける。晩御飯にはまだ早いけれど、どうせならなにがおなかに入れておこうとメニューを決めて顔をあげると、それだけで男が近づいてきた。
最初のコメントを投稿しよう!