黄昏古堂

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「コーヒーと、たまごサンドを」 「かしこまりました」 「あの、どうして………」  ブレンドしか置いていないのか、そう問いかけようとした寿宏だったが、言葉をすぼめた。そんなことは余計なお世話だろう。  だが男は言葉の先を読み取ったのか、盆に載せた水のコップをテーブルに置きながら、口を開く。 「店は一人でやっているものですから、メニューもシンプルにしてあるんです。単純にブレンドといっても、その配分はいろいろです」 「いろいろ、ですか?」 「ひとの嗜好は、季節や体感温度によって変化します。その都度、味わいたいものも変わってくるでしょう」  細く長い人差し指を立て、男は笑みをつくる。  例えば、アイスクリーム。寒い時期には濃厚でクリーミーなものが好まれますが、熱くなってくるとシャーベットのようなさっぱりしたものが欲しくなる。ジュースなんかも同じで、夏場は百パーセントのものよりは濃度の薄いあっさりめのほうが飲み心地がいいものです。  相手を見て、そのひとが欲しているであろうものを提供する。お客様一人ひとりに合ったブレンドで仕上げるから、メニューはひとつきりでも同じ味にはならないのだと、言葉を結んだ。 「チェーン店のようなところは同じ味を作らなくてはいけませんが、ここはそうではありません。コーヒーの味というよりは、くつろぎ、考える時間を提供するのが、黄昏(たそがれ)古堂(こどう)です。ご覧のとおり席の数も少ないですし、なにより営業時間も短い」 「営業時間?」 「日が傾き始めてから、完全に落ちるまで。それがうちの営業時間です。季節によって変わりますので、具体的に何時、とは言えないんですよね」 「……はあ」  そんなことで営業が成り立つのだろうか。  内心で不思議に思いながら窓の外に目をやると、外は薄暗くなり始めている。 「お客様が、本日の第一号です」  にこりと微笑み、店主は優雅に一礼した。  ガリガリと豆を削る音がする。香り立つ匂いに鼻をくすぐられながら、寿宏は鞄からスマートフォンを取り出した。  件の会社へ返事を入れる期限は明後日、案内メールを見るたびに心が騒ぐ。  内定をもらったのはここだけだったが、今のバイト先からも、それとなく打診を受けているのだ。個人経営の、スーパーとコンビニの中間のような商店。大学に入学した当初から始めて、随分とよくしてもらっている。  正社員となれば仕事の質も変わるし、責任だって生まれる。接客や品出しだけをしていればよかったバイトとは違ってくるだろうが、人間関係もふくめ、土壌ができあがっているのは気持ちの上で大きなアドバンテージだ。  一方で内定を貰ったのは教育関連の商品を取り扱う会社。  学校や役所、病院などに資料を作成したり講演会を提案したりといったサポート的な業務をしていると会社案内には書いてあった。取り扱うものは違えど、客を相手に販売をする仕事だ。 「お待たせいたしました」  クリーム色をした陶器の丸皿に鎮座するたまごサンドは、ゆでたまごではなく厚焼き玉子。黄色い断面を見せてふたつ並んでいる。ひとつはスライスしたきゅうりの濃い緑色が見え隠れし、もうひとつはトマトの赤みが鮮やかな彩りが覗く。皿の端には小さく辛子が添えられていて、これは自身の好みに合わせて、という配慮なのだろう。  湯気を立てるコーヒーはねずみ色の陶器に注がれており、洋風の店内に反して和食器で揃えられている。  店主が和装であることから、食器類は彼の趣味なのだろうか。  黒々としたブラックコーヒーに自分の影が映りこむ。  店内の照明を受けてチラチラと瞬き輝くさまは星空のようで、そのまま吸いこまれそうな感覚に陥った。 「迷い事ですか?」  穏やかに問いかけられ、思わず「ブラックなんです」と呟いた。主語のないそれに店主は頷いて、寿宏に囁く。 「一寸先は闇。投じてみなければわからないのが暗き闇の世界。覗いてみますか?」 「覗く?」 「光と闇、ここはその狭間の世界。昼と夜が交わる黄昏の館。さあ、覗いてごらんなさい、黒き世界、その先を」  カップの水面に映る光がパチパチと音を立て、沸騰するように泡立ちはじめる。  眺めているうちに(くら)み、ぎゅっと目を閉じた。
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