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コーヒーの香りが鼻をついて、寿宏は目を開ける。
落とした視線の先には、湯気を立てるブラックコーヒー。まだ手をつけていないたまごサンドが黄色い断面を見せている。
「……え?」
慌てて己の身体を確認する。
ジーンズに安物のパーカー。指にはマジックインキの汚れがあり、大学時代のバイト帰りのような姿に混乱する。
つい今しがた愛菜が背中を押して、そうして僕は――
「お客様?」
柔らかい問いかけに顔をあげると、和装の店主が微笑んでいる。
「ブラックコーヒーが苦手であれば、ミルクを足しましょう。混ざり合い、緩和され、暗闇も薄くなります」
ミルクポットを傾けると、とろりとした液体が流れ落ちてくる。
真っ黒なコーヒーは、穏やかな色合いに変じていき、ふわりと香りが変化した。
「無理をする必要はありません。どうぞ、後悔のない選択を」
一礼した店主がカウンターへ戻っていく。
その背中を目で追いかけていると、テーブルに置いてあったスマートフォンが震えた。愛菜だ。
あんたのせいで!
甲高い声が脳裏に響く。
違う。あれはただの夢だ。
いや、どっちが、夢?
口の中に苦い味が広がる。
濃いめにいれたブラックコーヒー。
飲んだ記憶もないのに、どうして自分は知っているのか。
誤魔化すように、ミルクを投じたコーヒーを口に含んだ。
まろやかな舌触り。
ついでたまごサンドをかじる。しっとり柔らかいパン生地は、ついさっき食べた気がするパサついたサンドウィッチとはまるで違っていて、出汁が広がる厚焼き玉子が味わい深い。
夢で終わるか現実にするかは、寿宏の選択次第なのだ。
貪るようにたいらげて、店を出る。
外はすっかり暗くなっていて、日没で閉店だという店主の言葉を思い出して振り返ると、出てきたばかりの店は消えていた。
錆ついた灰色のシャッターに、はげかけたペンキでなにか文字が書かれている。
また、夢?
だけど口の中には、食べて飲んだ味がこんなにも残っている。
握りしめていたスマートフォンが着信し、店内では無視したけれど、通話を受ける。
『もう、なんで出ないの!』
「あのさ、愛菜。ヒロくんのスペア、もうやめるよ」
『はあ? なにそれ』
「経済学部だっけ。イケメンだよね、ヒロユキくん」
『な、なんであんたがヒロくんのこ――、あっ』
やっぱりそうなのか。
顔はいいけど金遣いが荒くて生活力に欠けるともっぱら噂の男の名前に愛菜が動揺し、寿宏はすっきりした気分になった。
無理をすることはない。
僕は僕に合ったやり方で生きて、それで少し失敗したっていいじゃないか。
あれこれ言い訳をしている愛菜の声を聞かずに通話を切って、寿宏は決めた。
明日はあの会社を断って、そしてバイト先の店長にお願いしてみよう、と。
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