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長きにわたる就職活動を経て、ようやく内定を貰えた。
けれど、後藤寿宏は、重い息を落としている。
目に見えている情報だけを信じて選考が進み、最後の最後になって知った。志望した会社は俗にいうところのブラック企業で、退職者が続出していることを。
ネットの匿名掲示板は、匿名ゆえに口汚く貶める意見が大半だと思い、見ないようにしていた。先入観を持たず面接に挑もうと思っていたし、名も知れない人の意見に流されるのは愚かだと思っていたのだ。
(むしろ、愚かなのは僕のほうだ)
昼食のピークを過ぎた食堂。誰かが呼んだらしいOBによる「社会人の暮らし方」とかいう雑談の中で聞こえた会社名。寿宏が志望した会社は、鬱量産マシンだとか社畜部屋だとか呼ばれていて、「あそこだけは無理」と悪評高い企業だというのだ。
耳にうるさい騒ぎ声から逃げるように食堂をあとにして、ドクドク音を立てる心臓を抱えながらスマートフォンで件の会社を検索した。
自由に書き込みができる掲示板。最新らしいスレッドを震える手でタップすると、さきほど耳にしたものと大差ない、あるいはもっと具体的なコメントが並んでいる。
給料はいいよ。一部のヤツだけだけど
あそこはワンマンだから、縁故なら勝利確定。それ以外はタヒ
辞めてやったぜ、ィヤッフーー!!
脱出オメ
社員というよりは、ほとんどが取引会社、あるいは同業他社によるもので嘲笑うような言葉が並ぶ中、最新の書き込みが目に入った。
人事の奴が、来年度の人身御供に案内出してた。
書き込まれた日付は、寿宏が内定の電話を受けた日と一致していて、冷汗が出る。
と、握っていたスマートフォンが震えて悲鳴が漏れた。画面に表示された名前は愛菜。件の会社からではなかったことに安堵しつつも、この電話に出ることにも躊躇する。
とはいえ出ないわけにもいかないだろう。愛菜は機嫌を損ねると、あとを引くのだ。
『なんですぐ出ないの?』
通話を受けた途端、彼女の声が聞こえた。反射的に謝罪が出る。
「ごめん、食堂で人がたくさんいてうるさかったから」
『結果どうだった?』
「結果って……?」
『面接の結果! あそこ給料高いし、就職できたらいいよねえ』
はしゃいだような声が聞こえ、寿宏は口が乾くのを感じながら言葉を絞り出す。
「まだ、だよ」
『ふーん。わかったらマナにも教えてね、絶対だよ?』
「愛菜のほうは?」
『ぜんぜーん。だからヒロくん頑張ってね。……あ、うんいま行くー。ごめーん、友達待ってるから』
ぷつりと音は遮断され、周囲の声が耳に届き始める。
愛菜との電話はいつだって緊張する。未だに慣れないでいる自分はやっぱり彼氏としておかしいのかもしれない。
出会いも、付き合うようになったのも、流されたといえなくもない。
人数合わせのために、たいして仲良くもない面子に混じり合コンに出席し、案の定すみっこでちびちび酒を飲んでいた寿宏に声をかけてきたのが愛菜だった。
明るい茶色の髪、キラキラした色に塗られた長い爪。
彼女いない歴=年齢の寿宏には異人類に見えた女子となぜかアドレスを交換することになり、何度か会うようになった。
出不精の寿宏を外の世界に連れ出してくれたのは愛菜で、そのことについては感謝している。交友関係の広い彼女に対して引け目を感じることもあるし、どうして自分なんかと付き合ってくれているのか不思議に思うこともある。
ヒロくんはヒロくんだよ、と笑ってくれる彼女のためにも、きちんと社会人になって暮らしていく基盤を作りたい。
(だからっていいのかな。みんなが嫌がっているような会社に就職するとか)
心配性な自分がいらない気をまわしているだけ。
社会に出ることを不安に思うあまり、勝手に重くとらえてしまっているだけなのだと言い聞かせながらも、それでも寿宏は迷っていた。
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