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三便(終わり)
「お客さん!」
車の窓を叩きながら宏夢が声をかけるが、起きる様子はない。
鍵のかかっていないドアを開けて、彼の体を揺さぶりもう一度大きな声を出す。
「お客さん、起きて。仕事遅れますよ!」
「ん……。えっ!ええーっ?」
やっと目が覚めた彼は、目の前の宏夢を見て激しく動揺する。
「あの、どうして」
「お客さん、二時から現場だって言ってたでしょ?もう三時です。俺、静かだから裏にどうぞって言って。ごめんなさい、静かすぎて寝過ごしたんですよね」
宏夢は半泣きになりながら彼の腕にすがりつく。
「会社の人に一緒に謝りますから、俺……」
「大丈夫っす」
宏夢の言葉を遮るように優しく微笑む。
「昼過ぎに会社から電話があって、今日の工事は四時からっす。その分帰り遅くなるんで休んどけって」
「え、あ、……そうなんだ。ああ良かったー」
ほっとした宏夢は自分の早とちりと今の体勢に恥ずかしくなる。体を起こそうとして手が滑り彼の胸に飛び込んでしまった。
「ひゃぁー、ごめんなさい」
細身に見えるのにしっかり厚い胸筋にどぎまぎして離れようとすると、彼は宏夢の背中に手を回しそっと抱きしめてくる。
「あの、えっ?」
「何でそんなに優しいんですか?嫌いなやつにでも親切にしてたら勘違いされちゃうっすよ」
(え、何が?)
「あの、嫌いって?誰が誰のことを?」
不思議そうに聞く宏夢を見る彼は更に不思議そうだ。
「杉浦さん俺のこと嫌いじゃないんですか?」
(いやいや。あれ?なんで名前……、あ、名札か)
着たままのユニフォームの胸元に目をやる。体を起こし車から降りようとしたが引き止められ、宏夢は助手席に移った。まだ胸がどきどきして頭の中は妄想パーティーだ。それでも何とか言葉を絞り出した。
「嫌いじゃないです、むしろ……。いや、何で俺に嫌われてるって?」
「だって今日も店に入った時に俺のことめっちゃ見てたっすよね、つなぎとか靴、汚いの嫌なのかなって」
「そっ、そんなことないです」
(そのつなぎ姿に見とれてた上に、腕に浮き出た血管見てたんですーっ)
宏夢は自分の性癖を呪った。
「それと杉浦さんが用事してたのに俺、レジしてもらいに行って邪魔してすみませんでした」
レジでの沈黙の理由を知って驚いた。だがそういえば宏夢が検品や他の用をしている時に彼はあまりレジに来ない。他のお客さんに順番を譲ったりと、初めは一目惚れだったが今ではそういう優しいところにも惹かれている。
「いや、お客さんなんで、気にしないでいつでも来てください」
「それに冷やし中華暖めますかってギャグにも俺、上手く返せなくて。あと車で寝るって言った時も迷惑そうだったし……」
段々声が小さくなる彼に、こちらが申しわけなくなる。
「それはあの、ギャグとかじゃなくて弁当と間違っただけです。車のことも、お客さん……相手だと緊張してって言うか」
(妄想が止まらないって言うか……)
「杉浦さん他の人には普通にしてるっすよね。今日だって昼間リーマンと和菓子で盛り上がってたし」
「だからそれはっ……、え?」
運転席の彼の顔を見ると赤くなってうつむいている。
「……時間出来たから、ちょっと杉浦さんの顔見に行ったんす……。でも店混んでたから後で行こうと車に戻ったらまた寝ちゃって」
「あの、それって……」
「俺、……杉浦さんが好きっす。優しい笑顔や元気な声も、おばあさんに親切だったり、仕事に一生懸命なとこも」
(一生分褒められたー。こんな夢みたいなことあるの?あれっ、これいつもの妄想?)
あまりのことに宏夢が黙ったのを見て、そうと知らない彼はガックリと項垂れた。
「ごめんなさい、男に言われても困るっすよね。俺、中学出て今のとこの社長に拾ってもらうまでふらふらしてて。頭悪くて言葉遣いこんなだし……。大学生の杉浦さんと釣り合わないのわかってます」
もう一度ごめんなさいと言って、彼はハンドルを握り顔を埋めた。
(あー、それは違うー)
緊張で思うように話せない宏夢はもどかしい。
(でも今言わなきゃ、一生後悔する!)
「お、俺もっ、お客さんのこと……あなたのこと、ずっと好きです!好きだって言ってくれて、ものすごく嬉しい、です」
「え?でもあの」
顔を宏夢の方に向けて、信じられないと言うように目を見開いている。
「俺、好きな人の前だとすごく緊張して、上手く喋れなくなっちゃって……。だから、色々誤解です。すみませんっ!」
宏夢は深々と頭を下げる。
「……本当に?」
「はい、ちなみに二流大学に一浪して入ったんで、頭もそんな良くないです。杉浦宏夢、一回生の二十歳です」
「じゃタメすか、年上だと思ってたっす」
「えっ俺も」
二人とも、いつもは年より若く見られるのにと笑いあった。
「えっと、色々聞きたいけど、まずは名前、かな?『お客さん』じゃ呼びにくいし……」
そっすね、と言った彼は、矢崎健太と名乗る。
宏夢の頭の中では、もうお互いを「健太」「宏夢」と名前で呼びながらイチャイチャしている妄想が始まっていた。
だがこの妄想癖を彼には隠しておこうと心に決めた。そしてその殆どが現実になることを、宏夢はまだ知らない。
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