空籾の嘲笑

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 ここからは男の話になる。そうだな、そもそも始まりはうちの村じゃなくて、墺村のほうなのさ。  男の名前を教えておくか。与一(よいち)、そうあいつは名乗ったよ。歳は二十五と言っていた。俺にはもっと老けて見えたがね  与一の住んでいた墺村は、山多村に輪をかけて貧しい村だという。飢えをしのぐのに、米どころか木の根や肌を削いで食い繋ぐ年もあったそうだ。それでも扇田藩の役人は米を出せと村人たちを責め立てる。出せなければ、投獄されて見せしめの折檻。扇田藩は財政も貧しかったが、人心も貧しかった。上の者が下の者に当たり散らし、下の者はさらに下の者へ。百姓などはその最下層だった。まさに、血の一滴すらも搾り取られるような苛烈さの中で生きてきたってなぁ。  墺村では、そんな理不尽のはけ口として、村人たちにある習慣があった。いや、習慣って言葉もおかしいが、そう表現したくなるほど、みんなが頻繁にやってたってことなんだろうなぁ。  なんでも自分の田んぼに穴を掘って、その中に積もり溜まった苦しさ、辛さ、痛みを叫び、吐き出す。そうして自分たちの中に生まれた、向ける先もなく淀んだ…悪い感情を田んぼの中に埋めるのだそうだ。  そうして稲が育ち、悪い心は空籾の中へ封じられるのだと。毎年山のようにでてくる空籾への、やるせない気持ちを少しでも緩和する口実でもあったんだと思う。  墺村を管理する役人は、市川利三(いちかわりぞう)といったそうだ。これが扇田藩士を代表するような…上にはへつらい、下には横暴な男であったから、村人たちはよく田んぼに市川の悪口を叫んでいた。  数年前に大冷害が起こったとき…食えるものは食い尽くし、ついには多くの村人が飢餓で死んだときも市川は税収の手を緩めなかった。飢えではなく、市川の折檻で死んだ者もいたって話だ。ちなみに与一も、その折檻のせいで両親を亡くしたんだとか。  しかも市川はたとえ定められた税を納めても、なお足りぬと村人たちを責めた。たぶん年貢に上乗せして、私腹を肥やしていたのだろうさ。  そう…その日も市川は村にやってきて、鞘で村中の戸口を叩き、米を出せとがなりたてた。いつもと違ったのは、連れている従者の姿がなくて、濃い酒の匂いが市川から漂っていたことだ。  言葉の端々から、どうやら仕事でなにか不手際をしでかしたらしいことがわかったが…それは完全なる八つ当たりだった。これがまた、珍しいことじゃあなかったらしい。  市川は雪深い季節だというのに、村人全員を表に並ばせて、男たちを一人ずつ鞘で殴る。与一はその時歯を折られたらしい。  女たちには裸で立てと命じて、そこでついに村長が庇いに入った。市川は無論、聞かない。刀を鞘から抜き放ち、村長を斬ったんだとさ。  悲鳴と血飛沫、そして市川の哄笑。そこで抑圧されてきた村人たちの限界がきた。  飢え、痩せ細った村人たちでも数では圧倒している。鍬、鉈、槌、ありとあらゆる農具を手に取り握りしめて、市川に向けて振り下ろした。まるで熱病のように村人たちの中で広がったのは、怒りと憎しみだ。なぜ自分たちは飢えているのか。なぜ市川の体はこんなにも健康そうなのか。  市川の体が物言わぬ肉塊になるまで、ものの数秒とかからなかっただろうさ。  人々が正気に戻っても、やってしまったことは戻らない。武士殺しは大罪だ。村人全員が刑に処されるだろう。  かろうじて命を拾った村長が決断した。遺体を埋めてしまおう。  この村では、悪いものを田んぼに埋めてしまう。ならば市川の体も同じようにすればいい。そうすれば、空籾が封じてくれる。人間の体一つをまとめて埋めると見つかりやすいからと、遺体は細かく切りわけられて、村中の田んぼに埋められたそうだ。  それは、この大きな秘密を村全体で抱えあい、牽制しあう意味もあったのだろう。幸いにも市川の訪問は公的なものではなく、誰にも伝えていなかったらしい。後に彼の同僚が市川を探しに墺村にやってきたが、知らぬ存ぜぬを貫けば疑いもしなかった。  村人たちは、胸に不安を抱えながらも皆で口を噤み続けたらしい。  だが、そんな不安を吹き飛ばすようなことが、次の秋に訪れた。その年、村中の田んぼすべての稲に米が実ったのさ。  空籾は一つもない。ただ、普通の米でもなかった。垂れ下がる稲穂。その籾の中には通常の白い米の他に、真っ赤に色づいた米が実っていたそうだ。誰もが、田んぼに埋めた市川の遺体のことを思い浮かべただろうさ。とはいえ、赤い米をなかったことにはできない。すでに市川に代わる新しい役人は決まっていて、やっぱり年貢を出せと百姓たちを脅しつける。  村人たちは相談し合って、市川のことは隠したまま赤い米が実ったことを役人に報告した。すると紅白の米が実るとは幸がいいと、逆に褒められたんだそうだ。  また豊作の米は村人たちの腹も満たした。生まれて初めて、満腹と言うものを墺村の百姓たちは味わったんだなぁ。  だが、結局次の年にはまた空籾が戻ってきた。いや例年よりも収穫量が酷くて、全体の四分の一ほどしか実っていなかったんだと。そのさらに次の年にはもっと減って…また村に餓死者が出た。なまじ、一度豊作を覚えてしまっただけに不作の現状が認められない。飢えと役人からの恫喝に苛まれながら…村の中の誰かが言った。  ――田んぼに贄が必要なんじゃないか?  豊作の年と不作の年の違いは、田んぼに人を埋めたか埋めていないかしかない。そうだ、そうに違いないと、一人、また一人と言い出して、そうしてある日、役人がやってきたのを、付き添っていた従者も合わせて、村人全員で襲い掛かって殺してしまった。遺体は全て、また細かくわけて各々の畑に埋めていく。するとまた、次の秋には育った稲すべてに米が実ったのだという。ああ、赤い米さ。  与一たち村人は、それからも不作を恐れた。もう二度と飢えたくはない。理不尽な暴力も嫌だ。だから殺そう。これは贄だ。田を肥やす贄だ。そんなまともじゃない心理に陥っていたらしい。  そして与一ははそのころ、あることに気が付いたといった。村人の顔。贄を、贄をと呟く彼らの顔が、時折市川やその次に犠牲となった役人の顔にとって代わることがある。かと思えば、それは村の別の誰かの顔になって、ぶつぶつ、ぶつぶつと恨み言を呟くのだと。  思えば…墺村の田んぼは長く村人の、血のにじむような恨みつらみを吸ってきた。贄だけが、ただのきっかけじゃあなかったのかもしれないなぁ。  三人目の役人を殺して埋めた時、国が動いた。墺村付近で三人もの役人が消えたことを、さすがに怪しんだんだろうさ。すぐに取り調べが行われて、田んぼからまだ生々しさを残す三人目の役人の遺体が見つかった。それに、その前の二人の骨もだ。ついに武家殺しが明るみにでたのさ。  そうなれば、村人全員の処刑は免れない。すぐに国から兵が送り込まれて墺村で斬殺が始まった。大人も子供も、男も女もなく、みんなが斬り殺された。悪逆非道な百姓たちとして、問答無用の有様だったと。与一はその騒動を村の米蔵に隠れてやりすごした。村のあちこちから、悲鳴が聞こえてくる。兵たちの怒声もだ。  ふと、与一の耳に…それらに紛れて笑い声が聞こえたんだと。それは、辺り一面から…けたけた、けたけた。響き渡るように。  よくよく聞くと米蔵に収められた無数の米俵から聞こえてくることに気が付いたんだそうだ…与一は一番近くの米俵に手を突っ込んで、中身を取り出し確かめた。  掌に上には、無数の真っ赤な米。その年の米は全て赤色だった。白い米は一つしてなかった。  で、だ。その米一粒一粒に、顔が浮かび上がっているのを与一は見たんだと。目、鼻、口。それは市川の顔のようで、次の役人のようで、あるいは村の誰かの顔のようでもあったらしい。  掌の上の無数の米粒の顔が、けたけた、けたけたと、外の血なまぐさい惨状に嬉々として笑い声をあげていたんだそうだ。
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