3人が本棚に入れています
本棚に追加
1 農家の娘の進路
私はパンが好きだ。それはもう米よりも大好きだ。
将来はパン屋を開きたいと思っている。そのために高校は農業学校を受け、今は食品科学科で勉強をしているのだ。卒業したら、仲のいいパン屋さんに就職することになっている。……このことは父さんには秘密にしている。
どうして秘密にしているのか? うちは米農家だ。しかも専業でやっていて、たくさん田んぼを持っている。お米は食べ切れないほどある。
そんな環境だから主食に限り、パンやラーメンなどを買う必要がない。そもそも主食であるお米以外食べてはならないのが、小黒(おぐろ)家の家訓(ルール)なのだ。……あ、給食は例外でよかったけど。
家でパンなんて食べようものなら、説教。父さんの気が済むまでか、母さんが帰ってくるまでね。幼いころでも容赦なかったもんなぁ。近所のおばちゃんからもらったパンですらダメだった。見つかった瞬間、取り上げられて「コラッ!」って怒鳴りつけられたっけ。
お嫁に来た母さんは、べつに好きなものを食べたらいいという方針なので、ふたりで外食したときは秘密でパンやラーメンやパスタなんかを食べた。
父さんはそこは目をつぶっていたみたい。母さんには頭が上がらないところがあるから。
「ハッキリ言わんかい! 小黒家に生まれたからにゃ、隠しごとはするんでねェ!」
食後に「進路はどうするんだ?」という話に、はぐらかし続けたら案の定キレた。高校三年生だから、いつかは言わなきゃならない。進学か就職か。この二択を答えられずにいた。
一番の味方の母さんはまだ仕事から帰って来ない。じいちゃんは風呂だし、ばあちゃんは自室で大音量で歌番組を観ている。音がここまでダダ洩れだ。
つまり、味方がいない。面倒くさくて怖い父親と、一対一で人生が決まる重要な話をせねばならないのだ。
「黙ってねェで、なんとか言ったらどうだ!」
父さんがちゃぶ台を拳で叩く。結構日本酒を飲んでいたから、顔も真っ赤で叩いた手も真っ赤。青筋を額に浮きだたせた赤鬼そのものに凄まれ、息を詰まらせて小さく縮こまるしかない。
「まさかアイドルだの、モデルだの、女優だのになりてーなんて、バカ丸出しなことは言わねェーだろうな?」
「ち、違います。私の容姿じゃ無理ですし……。そもそも興味が――」
遮ってちゃぶ台をドンッ。
「バッカヤロウ! やる前から無理だのなんだの御託を並べんな! オメェは母さんに似てんだ! 自分を否定するってこたァよ、すなわち母さんも否定することになんだ!」
「じゃ、じゃあ……?」
このじゃあは、「なるためにがんばります!」のじゃあではなく、「何が言いたいんですか?」をボカして聞いたものだ。
「ダメだダメだダメだ! 変な虫がついたらどうすんでェ! 嫁入り前なんだぞ!」
このまま変な方向に勝手に暴走し続けてくれれば、そのうち母さんが帰ってくる。お願いだから、もっと暴走して!
しかし父さんは、小皿の塩に人差し指をつけて舐め、手元の升を口に勢いよく運んだ。
「……で、どうするんだ」
目が据わりきり私を凝視する。禍々しい色のオーラが見えるようだ。
「パン屋さんになろうと思ってます……」
「農家の娘がパン屋だァ……? ハッ、ちゃんちゃらおかしいわ!」
一升瓶を傾け、升に注いだ。それをグイッとあおる。
「よりにもよってパン屋はねェだろうよ。飯酒盃(いさはい)酒造とか鶴畑(つるはた)製菓とかあんだろ!」
見事に主食に関わるところ以外。しかもお酒とお菓子のメーカーとか……社員割をアテにしているのかな? そう勘繰りたくもなる。
「父さん聴いて!」
ちゃぶ台を平手で叩く。思いのほかいい音が出て、私もビックリしたし、父さんも目を丸くしている。とにかく、流れをこっちに引き寄せないと!
「うちの家訓は知ってるよ。でもね、パン作りは奥が深いし楽しいの。小麦は生きていて、発酵する様子を見てても飽きないぐらい」
「だったら――」
「聴いて!!」
ちゃぶ台を再度叩くと、明らかに父さんが怯んだ。
最初のコメントを投稿しよう!