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序章
背後から何か気配を感じる。
男は戦慄のようなものを覚えた。気配はひたひたとこちらへ近づいてきているようだ。おずおずと後ろを振り返ってみると――そこには、ただ静かな曠然たる闇だけが蹲っていた。
(誰もいない、誰もいない、誰もいない……)
男は気を紛らわすように、背広の内ポケットから煙草を取り出し、一本銜えた。なかなか点かないライターに舌打ちをし、五回目でやっと点いた火で先端を炙ったあと、男はとりあえず落ち着こうと煙草を燻らせた。
ここは、八階建てビルの屋上。裏通りのため、辺りは静かだ。見下ろしても人影は見えない。腕時計で時刻を確認してみると、深夜二時半頃だった。ここに来てから、かれこれ一時間……。
(俺はいつまでこうしているつもりなんだ……)
僅かに指先が震えていることに気づき、そんな自分に嫌気が差す。煙草をフィルターギリギリまで吸って指で弾くと、そろりと足を前に滑り出し、振り仰ぐ。
吐き出した白息が夜空へ消えてゆくのを見届けてから――男は瞼を強く瞑った。
(よし、死のう……)
もうこんな世界に未練はない。理不尽なリストラに遭い、婚約していた彼女にも逃げられ、手許に残ったのは婚約指輪と借金だけだ。もう生きる理由もなければ、望みなんてものもない。――だから……。
冷ややかなコンクリートが足裏を凍てつかせる。男は一度ごくりと喉仏を動かし――見なきゃいいものを――今から向かうであろう闇を見据えた。おりしも夜風が冷気を送り込み、凛烈な空気が頬を刺した。すると、たちどころに足が竦み、男は恐怖に慄く。
(もう一歩だ。もう一歩踏み出せ!)
そうしたら、楽になれる。生きることよりもどれほど簡単なことか……。しかしそれなのに、この先へどうしても踏み出せない……こんなにも死にたいのに――。
――チリン……。
男ははっとして息を飲む。瞬きも忘れてさっき感じた気配を改めて感じとると、ゆっくりと眸子だけで背後を見るように移動させていく。
――チリン。
――チリン。
玲玲たる鈴の音はこちらに近づいてきていた。
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