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「痒いからといって目を擦ってはいけないよ」
そう言って中島さんは瞼を擦る私の右拳をそっと手のひらで包み込んだ。触れた白い手があまりに冷たくて咄嗟に自分の体温をわけてあげたくなったけれどぐっと我慢した。冷たい手ですねと言って突然両手で手を暖めるように包み込んだとして、中島さんがどう感じるか分からなかった。中島さんがどういう人間なのか掴みきれていなかったし、そういった何気ない触れ合いが自然なほど親密かと言われれば自信が無かった。充血した瞳で私は中島さんを見上げた。右目がじくじくと痒くていてもたってもいられなかった。すぐにでも目の縁のピンク色の粘膜を指で引っ掻きたかった。中島さんはじっと私の目を見下ろしている。
「目を擦ると角膜が傷ついたり網膜が剥がれたりする危険性がある」
ビックデータからの解析ですと抑揚の無い注釈が聞こえてきそうな機械じみた言い方が可笑しかった。
「だったらどうすればいいんですか。すごく痒いです」
「冷やすといいよ」
私の右手を離すと中島さんは自分のハンカチをズボンの後ろポケットから取り出し、そのまますたすたと廊下へ出て手洗い場でハンカチを濡らした。石鹸で念入りに洗ってから硬く絞って戻ってきた。
「ほら、これで冷やしなよ」
クマが本を読んでいる小さなイラストが何個もプリントされた白い木綿のハンカチ。中島さんのハンカチにしては随分メルヘンチックでファンシーなハンカチだった。
「中島さんのハンカチじゃないですか。こんな濡らして、どうするんですか」
冬の水道水で冷えたハンカチを受け取って言うと中島さんは
「予備のハンカチ持ってるから大丈夫。鞄に常に3つはハンカチ入ってるから。よくハンカチ持ち忘れるからさ」
と笑って言った。疼く右目に冷えたハンカチを乗せると石鹸の清涼な香りが鼻先を漂った。
「可愛い柄ですね」と言うと「もらいものだから。自分では選ばないよ、流石に」と苦笑した。
「誰からですか?」
「さぁ、分からないな。もらいものじゃなかったかも。実家にあるやつを持ってきたから、母親のかもな」
心底どうでも良さそうだった。適当な受け答えを聞いて私もどうでも良くなってしまった。中島さんがロッカーから取ってきたハンカチはタオル生地の青い無地で、縁に刺繍がしてあるだけのシンプルなデザインだった。
「それは自分で選んだんですか?」
中島さんは新しいハンカチを後ろポケットにしまってようやく隣の席に戻った。
「いいや、これももらいもの。だけどこれはちゃんと誰からもらったか覚えてるよ。前の部署の人が異動の時にくれたんだけど、流石に二年も一緒に働いてたから好みをよく分かってるよね」
中島さんが目を細めて言った。柔らかな微笑みが口元に浮かんでる。
「確かにハンカチって自分で買うこと無いですよね」
「そうなんだよね、貰うからさ。一度も買ったことないな」
話しながら中島さんは手元の書類に視線を落としていた。私もパソコンの画面に向き合う。仕事に戻ってようやく右目の痒みがひいていることに気づいた。借りたハンカチはまだ冷たい。
「あの、ハンカチありがとうございました。右目、痒いの終わりました」
そう言うと中島さんは可笑しそうに
「そうですか、痒いの終わりましたか」
と言った。
「なんですか」
「いいえ、何でも。良かったね。じゃあハンカチもらうよ」
中島さんが白い手を差し出した。さっき私の右手を覆った冷たさが思い出された。触らずとも中島さんの手が冷えているのが分かる。きっと肩に触れても頬に触れても私の火照った手よりは冷たく感じるだろう。
「いや、洗って返します。それに、まだ濡れてます」
「いいよ、そんな。暖房の近くにかけて干しとくからさ、ほら」
中島さんの指の長い綺麗な手を見て何故だか絶対にこのままハンカチを返してなるものか、と思った。持ち帰って石鹸洗剤で洗濯して、太陽の光を存分に当てて乾燥させ、きちっとアイロンをかけて返す、俄然そう決意した。返す時にお礼にお菓子をつけるのは不自然じゃないはずだ。
「ダメです、これは絶対に私が持ち帰って洗います!」
考えていることがそのままの熱量で口から出てしまって中島さんを驚かせた。
「どうしたの一体」
面食らったあと中島さんは面白そうに聞いた。私は赤面して
「いや、だって私がもし結膜炎だったら危険です、うつります」
ともっともらしい言い訳をした。中島さんは納得したらしく、
「なるほど」
と手を引っ込めた。冷たかったハンカチは私の手のひらの中で生温くなっていた。最早私の体温で温まったハンカチより中島さんの手の方がよほど冷たかろうと私は思った。しかし子供のような私の高い体温を薄着でいる中島さんに分け与える機会は一生ないだろう。温めてあげたいと思っても、私からは触れることすら出来ない。
せめて、中島さんが男だったら良かったのに。
誰のためにもならない熱を、いつも私は持て余している。
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