【短編】自由になれるツバサ

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 一人になりたい。  そう思ってしまったら、私は自由を求めてドアを開く。   【旅に出ます】  そうメッセージを送った後、携帯の電源を切り、小さなショルダーバッグに財布と必要最低限のものだけを持った私は、目の前の電車に乗り込んだ。  車窓から流れる景色を眺めながら、この電車はどこに向かっているのだろうと考えるも、どこに行こうと私の自由だろうと考えるのをやめる。  目的があるわけでもない、何をしたいわけでもない。  私はただ、一人で自由になりたかった。    大変な事件が起きたわけでもない、自分自身がミスを犯して憔悴しているわけでもない。しかし、日常のほんの小さなことが積もり積もって、何もかもを投げ出したくなる時がある。  別にこの世を去りたいとか、自分を傷つけたいとか、そういうことではなく、ただ“自由”を求めて、今いる世界から抜け出したくなる。  持っているだけで誰かと繋がることができるツールも、手にしているだけで目には見えない何かに縛られていると感じてしまい、今は鞄の奥底で眠りについている。   「海だ……!」  眼前に広がる青い海を見て、童心に帰る。  いつもだったら、眠り姫を窓外に向け景色を保存しようと必死になるが、今日は自分だけの記憶に景色を焼き付かせようと、瞬きをシャッター代わりにする。  窓を開けると、少し潮の匂いがする風が吹き込み、それだけで“いつもと違う世界”に来たのだと錯覚する。  気の向くまま海の見える駅で降り、青く染まっている海を見つめるだけで、感嘆の声が漏れてしまう。  何度見ても、初めて見た時と同じように高揚感が溢れるのは、海が見せる表情が毎度違うからなのだろうか。    改札を抜け、案内板も見ず、目的もなく歩き出す。  しばらく道なりに進んでいくと、食欲のそそられる匂いが風に乗ってやってきた。 (そういえば、朝から何も食べてないや)  空腹だということを認識してしまうと、今まで感じていなかったことが嘘のように、自分が飢えていることに気づく。  匂いにつられるまま歩き続けていると、その匂いの正体であるお店に辿り着いた。  自分の嗅覚に驚きつつ、店の前で団扇を仰いでいた店員に「いらっしゃいませ」と元気に声を掛けられ、導かれるように店内へ入った。 「うちは海鮮丼がおすすめですよ」  入店の挨拶を済ませ着席すると、メニューと睨めっこしていた私に、水を運んできた店員が笑顔で声を掛ける。  店員におすすめされた品と併せ、いい匂いの正体であったサザエの壺焼きも注文し、出された水で喉を潤す。  しばしの間、店内で流れる心地よい音楽を聴きながら流れる雲の様子を眺めていると、限界が近づいたのか、ぐうと腹の虫が鳴った。 「お待たせしました。海鮮丼とサザエの壺焼きです」  ちょうどいいタイミングでやってきた料理を前にして、ゴクリと喉が鳴る。  色鮮やかで、いかにも新鮮といった魚の切り身がご飯の上で輝いている。 「いただきます!」  一口頬張るだけで幸せになれるというのは、まさにこの丼のことだと思いながら美味しさを噛み締める。空腹を煽ったサザエも、お味噌汁もお新香も、口に入ったもの全てが私のお腹を満たしてくれた。    昼食を終え、腹ごなしに辺りを散策していると、大きな公園に辿り着いた。  遊具などはなく、鮮やかな緑色の芝生が広がっており、東屋やベンチが間隔を置いて点在していた。  空いているベンチを見つけ、コンビニで買ったアイスコーヒーを片手に腰を下ろすと、ちょうど座った位置から海が一望でき、きらきら光る水面に心が揺れる。  何をするでもなく、寄せては返す波の動きを眺めながら、大きく息を吐く。  悲しいわけではない。苦しいわけでも、辛いわけでもない。でもなぜか、明るく楽しい気持ちになれない日が突然やってくる。  家に閉じこもっていると、心の扉が塞がっていくような気がして、そんな日は自分だけの自由を求めて外へ出る。  誰かと一緒に何かを共有するというのも楽しい。けれど、心に余裕のないときはいつもであれば気にならないことにも目くじらを立ててしまいそうで。そんな気持ちが芽生えてしまうのならば、いっそ私は一人でいい。  誰かと一緒にいる時間も大切。一人でいる時間も大切。大人になってから、それがいかに大切かを学んだ。    日が傾き海が夕日に照らされる頃、やや強かった風も落ち着き、水面と同じように心が凪いでいく。  心のリセットを終えると、朝まで沈んでいた気持ちはどこへやら、また明日からも頑張ろうという気持ちになってくる。  もちろん、こんなにも簡単に毎回メンタルがリセットされるわけではない。それでも、目覚めた時よりほんのわずかに気持ちが上向くだけで、この小旅行は成功だったのだと自分に言い聞かせる。  仕事も家事も何もせず、明日に繋がる今日を生きられるのなら、自由に羽ばたく日があってもいい。    自宅へと帰り、携帯の電源を入れると、彼からのメッセージが届いていた。 【気をつけて行ってらっしゃい、素敵な旅を】  じんわりと温まる言葉に心が解けていく。無性に彼の声が聞きたくなり、私は無意識に着信履歴から彼の名前をタップしていた。 『おかえり。今日の旅はどうだった?』
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