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仲良くなりたい
翌日、会社の玄関ホールの奥でエレベーターを待ってる時だった。もう1人出社して来た社員が俺の後ろに並んだので、少しだけ前に詰めたのだ。そしてすぐにエレベーターが降りて来て、俺が先に乗り込み開閉ボタンを押して操作する。
「何階ですか?」
そう声だけで尋ねると、その人は「8階でお願いします」と丁寧な話し言葉で言う。
俺は言われた通り8階のボタンを押し、それから、15階のボタンを押した。
通常の出社時間より1時間は早い時間帯。昨日中途半端に終わらせた仕事が残っていたので、俺は早めに出社したつもりだった。だから、こうして他の社員と出くわすとは思っていなかったし、この人も何か仕事かなぁと妙な同情をしてしまう。
そんな中、エレベーターが動き始めた後に一緒に乗っていたその人が「あの……」と遠慮がちに声を掛けてきたのだ。俺はそれに振り返り「なんですか?」と首を傾げると、彼は俺の表情を伺いながら口を開いた。
「……あ、いえ……間違ってたら申し訳無いんですけど……。昨日、満員電車であなたを見たような気がしたので」
「昨日……?あっ!」
男の顔を見て、俺もすぐに思い出す。
大勢の乗る電車の中で、カーブに差し掛かり揺れが来て、俺の目の前に咄嗟に手を着いた若い男だ。まさか同じ会社だったとは知らずに、あの時はちょっと素っ気無い態度を取ってしまったのだが……。
男も同じ事を思っていたのか、この場で改めて頭を下げられてしまった。
「あのっ、昨日はすみませんでした。揺れでああなったとは言え、ビックリさせてしまったみたいなので」
「ああ、いいですよそんなの!揺れも大きかったし、誰だってあんななりますって!」
顔上げて下さいよ!と慌てて言うと、男はゆっくりと俺の方を見た。だけどその表情はやっぱりどこか申し訳無さそうにしており、この人はとても優しい人なんだろうなと思ってしまう。
その直後にエレベーターが目的の階に到着したので、俺は彼に笑顔を向けながら道を空けた。
「8階、着きましたよ」
「……はい」
「あまり気にしなくていいですよ。俺も言われるまで忘れていたので」
すると彼はもう一度お辞儀をしては、ありがとうございます、失礼します、と言ってはエレベーターを降りて行った。
俺も本当に気にしてなかったし、もう終わった事としていたので逆に彼の言動には驚いた。
……あんな礼儀正しい人も居るんだ。同じ会社だし、名前くらい聞いとけばよかったかなぁ。
まだこの会社に知り合いが裕司しかいないので、新しい友達を作るチャンスだったんじゃないかと、この後俺は、少しだけ後悔したのだった。
いつものように社長室の一角にある机でデータ処理をしていると、不意に裕司が1枚の紙を手にし「晴弘ー、ちょっとコレ頼む」と自分の席からヒラヒラと振っていた。仕方なく椅子から立ち上がった俺はそちらへ近付き、その紙を受け取った。
「コレは?」
「んー……それに確認事項の付箋貼ってるからさ、8階の開発部のとこ行って周防って人に渡して。んで、ちょっと急ぎだから返事貰うまで戻って来んなよ」
「ええー、面倒くさっ」
「社長命令だぞー。行ってこい補佐役」
「……はいはい」
裕司は本当に忙しいのか、パソコン画面から一切顔を上げなかった。
俺はそれを受け取ると、社長室を出てエレベーターに乗る。
……8階って、今朝会った人も8階で降りたよな。俺にはよく分かんないけど、開発部ってなんか名前からして難しそうな部署だし……もしかしてあの人、凄い頭の良い人だったのかも。
俺は慣れない挙動で、とりあえず8階の開発部とやらを訪ねた。一番近くに居た女性社員に周防という人を呼んでもらい、現れた人を見て改めて驚く。
「あ、今朝の……あなたが周防さんですか?」
「はい、そうですけど……あ、今朝はどうも」
お互いに頭を下げては、なんとなく微笑み合う。
今朝エレベーターで会った、礼儀正しい人だ。この人、周防さんって言うのか。
と、こんな事をしている場合では無かった。俺は裕司から預かって来た資料を周防へと手渡し、少し急かす。
「あの、コレ……社長から周防さんに渡すように言われて来たんですけど……。返事貰うまで戻って来るなって言われてるんで、今いいですか?」
「はい、分かりました……あ、ちょっと時間掛かると思うんで、とりあえずコチラへ」
付箋のメモ書きを読むと、彼は一瞬眉を寄せた。何かトラブルでもあったのか、俺には分からないが案内されるままに開発部のオフィスへと足を踏み入れる。
うわぁ……なんか人が沢山居るフロアって久しぶり。ここじゃあ裕司と社長室に籠もってひたすらデータ処理しかしてないもんなぁ。前の会社が懐かしい。
周防は自分のデスク横に椅子を持って来ると、俺に座るよう勧めて来る。そのお言葉に甘えて、彼がパソコンのデータを見たりどこかへと電話を掛けている姿を眺めながら、俺は慣れない場所にソワソワとしていた。
やっぱり、なんか難しそうな話ししてるな。俺がこの会社で働けてるのって、奇跡に近いんじゃなかろうか。
彼は見た限り、俺とあまり歳が変わらないようにも思える。とても真面目そうな雰囲気なのに、口元のホクロがちょっと色っぽい。
……いや、でも伊織の方がカッコいいな。色気もエロさも伊織が上だろう。……俺の勝手な意見だけど。
そんな偏見混じりのジャッジを下しながら、俺は暇を潰す。
それから10分くらいが経っただろうか。周防は新しい付箋に何やらメモを記し、俺に差し出して来た。
「お待たせして申し訳ありませんでした。じゃあ、コレを社長に渡してもらっても?」
「あ、はい。大丈夫ですよ。預かりますね」
それでは、と椅子から立ち上がった瞬間、周防に「あのっ」と呼び止められてしまった。何かと思えばこちらへと手を差し出し、微笑んでは握手を求められる。
「自己紹介……遅くなりましたが、俺は開発部の周防です。よろしくお願いします」
「あ、どうも。俺は社長補佐の福田です」
こちらこそよろしくお願いします、と互いに軽く挨拶をした後は、じゃあ急ぐんで、と俺は開発部のオフィスを出た。
……名前、周防さんか。友達になれるかな。
この先も会うか分からないが、これも何かの縁だと思うと、ちょっとだけ嬉しかった。
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