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俺に出来る事
今日は初出社の日。
伊織より先に家を出る俺に、彼は弁当を作って持たせてくれた。今度のはキャラ弁じゃなくてちゃんとしたやつだと言われ、懐かしいなぁとあの頃を思い出す。
まさかこんなにも早く、俺の為だけに弁当を作ってくれるなんて。これから毎日弁当作ってくれるって言ってたけど、俺もなんか伊織にした方がいいのかな。でも、俺になにが出来る?
朝の通勤ラッシュの電車中、俺は吊り革に掴まりながらぼんやりと考えていた。
家事以外で俺が出来る事。何があるだろうか?
そんな事を考えている間にも会社に着いてしまい、俺は社長室のある15階へ直接エレベーターで登る。
「おはよーございまぁす」
「お!おはよう晴弘。ちゃんと来たな」
「おい裕司、それどういう意味だこんにゃろ」
顔を合わせた瞬間にそんな冗談を言い、笑い合う。
社長の吉田裕司は俺の地元の同級生。で、俺達の地元では親しければ下の名前で呼び合うのが普通だったから、今でも当時仲の良かった友達は全員下の名前で呼んでいる。
俺はさっそく「社長補佐」というあまり聞かない役職を与えられ、その仕事に取り掛かるのだった。
「晴弘、これとこれとこれのデータ、まとめてパソコンに入れといて。それが終わったら次これね」
「お、おう……分かった」
裕司に紙で渡された資料を受け取り、パソコンに向かって入力する。
簡単な仕事と思っていたが、いざやってみるとやる事が多くて意外と忙しかった。データをまとめたり、社長室の片付けをしたり。でも、一緒に居るのが気心知れた友人だからか、ストレスも無くて楽しいと思っていた。雑談をしても叱られないし、分からないところがあっても遠慮せずに聞く事が出来る。こんな職場なら、本当に来て良かったと安堵した。
「……晴弘、昼休憩だけど、どうする?どっか食べに出掛けるか?」
「え?もうそんな時間?」
集中していたせいか、時間が経つのが早く思える。
俺は時計を見ては「本当だ」と呟いた。
「いや……悪いけど俺、弁当持って来てるから」
そう言うと、裕司は目の色を変えて「マジで!?」とツッコんでくる。
「お前……手作りか!?手作りだろ!?てか、作ってもらったんだろ!?」
「え……そ、そうだけど……?」
「やっぱりぃ!指輪してるから結婚してんじゃないかって思ってたんだよ!ズルいぞこの野郎!」
「けっ、結婚なんて……そんな……」
そんな事を言われると、なんだかとても照れてしまう。
……そ、そっか。俺、結婚してるって思われてるんだ。
伊織に貰った指輪をして、伊織に作ってもらった弁当を持参して。世間はこれを見て、ちゃんと愛し合ってる人が居るんだと羨ましがってくれてるのか。
俺は小さく微笑むと、興奮している裕司に冷静な声で違うよ、と言った。
「結婚はしてない。けど、大切な人は居るし……その人と一緒に暮らしてる」
「なにそれ……じゃあ単なる同棲?」
「そうだな」
それでも羨ましい!と吠える裕司を見て、俺はちょっと嬉しかった。
羨ましい?そうかそうか、羨ましいのか。俺と伊織の関係が?それはそれは……実に気分が良いな。
裕司は俺達の事を知らない。だからそんな言葉がすんなりと出て来るのだし、男同士ですなんて言ったら、それこそきっと違う反応が返ってくるに違いない。
彼は「あーあーいいですよぉ。1人で食って来ますからぁ」と拗ねたように口にしては社長室を出て行く。
俺はその背中を苦笑いで見送り、目の前のパソコンを少しずらしてはカバンの中から弁当箱を取り出して広げた。
「……お、美味そう」
おかずは玉子焼きにウインナー、唐揚げ、ほうれん草のお浸し、ブロッコリーにミートボール。なんだか学生時代を思い出すチョイスだが、子供舌の俺にとっては嬉しいラインナップでしかない。
俺は丁寧に両手を合わせてから、いただきます、と声に出してから弁当を食べ始めたのだった。
仕事は夜の7時半に終わり、そっから電車に乗り、家に帰り着くのがだいたい8時ちょっと過ぎ。だけどこのままどこにも寄り道せずに真っ直ぐ帰れば、明るい家と温かいご飯が俺を待っているはず。
バイト時間をずらしてもらった伊織は、上手くいけば8時前には帰れると言っていた。一番の稼ぎ時に早く帰るのは店長も渋っていたらしいが、その分早めに店に入って働くので大目に見てもらえるのだとか。
俺は家に帰り、貰った合い鍵で鍵を開ける。そして、ただいまぁと廊下の奥にも聞こえるよう声を上げる。
お、電気が点いてる。て事は、伊織も帰って来てるな。
今まで誰かの待つ家に帰るなんて事はあまり無かった。元カノにだってそんな事してもらった記憶が無いし、本当に伊織が初めてだ。
俺の声が聞こえたのか、廊下の奥の扉が開く。そこから顔を出した伊織は、おかえりなさい、と笑っては出迎えてくれた。
「お疲れ様、お風呂沸いてるよ」
「おう、ありがとう。あ、そうだ……伊織」
「ん?」
引っこもうとする彼を呼び止めて、俺は彼の目の前で立ち止まる。そして、今日の事を思い出しながらもう一度お礼を言った。
「……お前と一緒に暮らせて本当に嬉しい。ありがとうな」
俺が伊織に返せるものは、まだ何も思い浮かばない。だけど感謝の言葉なら、幾らでも伝える事は出来る。
すると伊織は少し驚いたような顔をしては下を向き、照れているのか、小さな声で「早く風呂入れよ」と言う。
俺はハイハイなんて返事しながら洗面所のドアを開けて中に入ろうとしたが、今度は彼に呼び止められてその場で振り向いた。
「……晴弘さん、風呂、上がったら抱きしめさせてね」
「!……あ、ああ……分かった」
……なんだ。しっかり喜んでんじゃん。
俺は不意打ちで食らった言葉にドキドキしながらも、いつもより早めに風呂から上がったのだった。
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