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…
…
…あぁ、もしもし。わしじゃ。わし。
なに?わしじゃだれかわからんて?声でわかるじゃろ。お前の旦那のゲンじゃ。
ワシワシ詐欺かと思った?馬鹿言うな。それを言うならオレオレ詐欺じゃろ。なんじゃワシワシ詐欺って。爺さんが婆さん騙してどうするんじゃ。
いや、そんなことを言うために電話したんじゃなくてな。
ヒロムが「父さん、年なんだからそろそろ携帯持ってくれ」言うから、今日買いに行ってな。すまーとほん?言うものを買ってきたんじゃ。
これがありゃー電話もメールもできるって言われたんじゃけど、どうにも使い方がわからんでな。電話のやり方だけ教えてもろうたから一番にかけてみたんじゃ。練習じゃ練習。
忙しいんだからそんなことで電話するな?まぁそう言いなさんなよ。せっかくだから顔見て言えんことでも言おうかと思ってな。
明日は雪が降る?馬鹿言え。今夏じゃろが。
わしがちょっとかしこまってなんか言おうとするとお前さんいつもそうやって茶化すのう。雪なんか降らんわい。
それじゃ大雨だ?外は綺麗な夕焼けじゃぞ、これじゃ雨も降らんわい!失礼じゃのう。
変なことばっかり言うから何を言いたかったんか忘れたわい。…認知症じゃないぞ。わしはまだボケとらんわ。
ああ、思い出した思い出した。
まずはあの時じゃ、わしがリストラされた時。
あん時はちょうどバブルが終わってどんどん不景気になってな…わしは37でお前は33だったな。ヒロムは5年生になったばっかりで…これから金がかかるって時にクビになって…本当に不甲斐なかったな。失業保険も大して出んかったしお前さんには苦労かけたと思う。すまんかったな…
仕事が見つかるまでお前が毎日パートで働きに行って…疲れてるのに家事までさせてしまってたな…今思えば使えん旦那じゃのう…
「大丈夫よ、あなたなら」っていつも励ましてくれとったのに、わしはそれすらも鬱陶しく思っとった。能天気に笑いやがって。俺の苦労も知らずにって思っとったが、一番苦労してたのはお前だったろうに文句一つ言わずに…
「ゆっくりで良いんですよ、神様がくれた休憩時間だと思いましょ」ってお前が言ってくれた時があったな。あれにわしは救われたんじゃ。何社受けても年も年じゃしどこも取ってくれんで、外で働いて家に金を入れるっていう男としての当たり前の務めすら出来んで、プライドも何もかもズタズタで、正直もう死のうかと思った時もあった。踏切の前に行けば、飛び込めば楽になると毎回思っとった。それでもそうしなかったのはお前さんとヒロムがいたおかげじゃな…
お前さんがいなければわしは今ここにおらんかったかもしれんのう…
知り合いの会社にようやく入れてから、今度は忙しくてほとんど家に帰れんかったな。ヒロムも反抗期になって毎日大変じゃったろ…
たまに家に帰ればヒロムはわしをクソジジイ呼ばわりして、あれは本当に腹が立ったのー。つい思いっきり殴りそうになったところをお前が止めたんじゃったな。「あなたは力が強いんだから叩いちゃだめ。」って言ってヒロムの前に立ったからわしも渋々我慢したが…その後のことが人生で一番驚いたって言っても過言じゃないのう。
大袈裟だって?いやぁ…いつも温厚なお前さんが思いっきりヒロムを叩いたんじゃもん。ありゃわしもヒロムもびっくりしたわ。
「平手なだけ感謝しなさい!」言うてな。「毎日毎日あんたと私のために働いてくれてるお父さんに言うことがそれか!私を馬鹿にするのはまだ我慢してたけれど、お父さんを馬鹿にするのはやめなさい!」ってなぁ…
…今のは私の真似かって?似とったじゃろ。え?全然似てないしそんなきつい言い方してない?いやいやあれはな…わしでも怖かったわい。はっはっ。
…そう怒るなよ。怖かったけどな、わしのためにそこまで怒るお前さんを大事にせにゃならんとあの時改めて思ったんじゃよ。同時にわしも仕事ばかりじゃなくてちゃんとヒロムを叱らにゃならんともな。
わしだってお前が馬鹿にされとるんは耐えられんからの。
そういうことはその時に言ってくれって言われてもな…わしの性格じゃ言えんのもわかっとるじゃろ。これでも頑張っとるんじゃ、許してくれい。
あとはなんじゃったかのう。
いや、本当にお前さんには苦労かけたなと思っとる。
わしはこんなんじゃし…言いたいことも顔を見て言えんような奴じゃ。そんな奴とよく結婚してくれたのう。
実はわしはお前に一目惚れだったんじゃが、お前はどうだったんだろうね。
初めて聞いた?そりゃそうじゃろ。誰にも話しとらんもん。
上司から無理矢理紹介されて会うことになって、まだお前は20で結婚を焦ることもなかろうに、わしと結婚したのはなんでかのう。
私の話は良いからあなたの話をしてくれって?一目惚れの話をするのは恥ずかしいんじゃが…
当時わしは勤めてた会社でお前のお父さんの下で働いとってな。面倒見の良い人でわしのこともよく気にかけてくれとった。「佐藤、お前いい人はいるのか?まだ24だからって油断してたらすぐ30、40になるぞ」言うてな。「俺の娘が20になるんだが会ってみないか?」言われたから、上司の娘さんじゃし会わんで断るわけにもいかん、とりあえず会ってみようと思っての。
しかし、いかんせん見合いなんてわしも初めてじゃったから勝手がわからんし、わしはこの通り話すのも苦手じゃからお前さんがなんでわしを選んだのか未だにわからんよ。大して顔が良いわけでもないしな。
…ああ、一目惚れしたのはいつかって話じゃったの。もうそりゃお前さんを見た時じゃ。
懐石料理の店じゃったかの。個室に先にわしが通されて待っとったんじゃが、お前さんが入ってきた時のことは忘れられん。
多分一生懸命マナーを覚えたんじゃろうなあと思ってな。着慣れない着物を着とるせいか恥ずかしいんか顔を真っ赤にして、部屋に入る時から座る時まで間違えたらいけん、間違えたらいけんって聞こえそうなくらいマナーを気にしとったじゃろ。まず障子の敷居を踏まないようにして、畳の縁も踏まないように、そんで着物を着崩さんように気をつけながら座って三つ指をついて座布団の前で礼をして、見ているこっちがはらはらするくらい一生懸命じゃったのがなんというか…健気での。ようやくわしの前に座った時のほっとした顔も…可愛かったの。
…なんじゃ、照れとるんか?照れるのはわしの方じゃぞ。今更こんなこと言わされるとは思ってもみんかったわ。
お前さんはなんでわしと結婚したんかのう…聞いてみたいもんじゃが…
…もうすぐ日が沈むのう。
まだ言いたいことはたくさんあるんじゃが。
…お前さんがいなくなってから、わしはなんだか空っぽになったような気がするよ。何十年も一緒におったからのう…きっとわしの半分以上はお前さんでできてるんじゃろな。
わしが先だとお前さんは悲しむじゃろうし、お前を泣かせるのは嫌じゃから、そう考えたらお前が先で良かったのかもしれんの…
……いや、良いことはないの…わしは…わしは…まだお前に言いたいことの少しも伝えられとらん……
確かわしの母さんが死んだ時お前さんが教えてくれたんじゃったな。昼と夜の間は「黄昏時」言うて、「誰そ彼時」とも言うんやと。薄暗くてすれ違う人の顔が見えんから「あなたは誰ですか」と言う意味で「誰そ彼」と聞くからそういうんじゃったっけの…。
「その時間だけはこの世界のものではないものも混在するから、きっとすれ違う人の中にあなたのお母さんもいて見守ってくれてるわよ」ってな…
わしはそういう迷信の類は信じんのじゃが…もしそれが本当なら、この時間ならお前の携帯電話に電話したら繋がるかもしれんと思ってかけたんじゃが…繋がったから驚いたわい。でもやっぱり返事はないのう…わしの一人芝居じゃな。
それでも繋がったってことはきっとどこかで聞いとるんじゃろ。
わしももう長くはないし、もう少しだけそっちで待っててくれるか?そっちで新しい男なんか作らないでくれよ。
…ああ、綺麗な夕焼けじゃ。日が沈む………ああ、またかけるからの…
…うん、じゃあの……
……ありゃ、これどこで切るんかいの。
…ああここか、…じゃあの。
……
………
…………
画面には、通話終了の文字が無機質に映っている。
そっとスマホを畳の上に置き、仏壇に向き合った。
仏壇に置いてある、もう使う人のいない携帯が一瞬ちかっと光り、遺影の中の彼女が少し微笑んだように見えた。
聞こえてましたよ、と言うように。
聞こえているといいのう。彼も小さく笑い、そっと手で蝋燭をあおぎ、火を消した。
窓の外はもう日が沈み、星が瞬いていた。
外ではちらほらと送り火が焚かれ、数本の煙が天国への階段のように空へと昇っていった。
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