Kとレム

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  Kとレム  ブツブツと独り言を言いながら、コートの襟を立て、Kは高架道路脇のタイルの歩道を歩いていた。クスリが、彼をいざなう。  ――――夜明けなんか永遠に来なけりゃいい。夜と昼、男と女、どちらか一つにしてくれ、二つもあるなんて、むずかしすぎて俺にはわからない。――――  時折、猛スピードでタクシーが走りすぎる。ヘッドライトの光に、Kは何度か目をくらまされて平衡感覚を失う。そのたびにふらつきながら、Kは歩いた。真っ暗な空を背景に、幽霊のような高層ビル群がゆらりと並んでいるのが見えた。  Kは、自分がなぜ絶望しているのか知らなかった。絶望していても悲しくないのはなぜなのか、知らなかった。悲しみの細胞が、きっと不足しているんだと思った。男は、女に比べると悲しみの細胞が8分の1しかないのだと、Kは教えられた。  Kはやっと、死ぬ決心がついた。  走り来るタクシーに跳ねてもらおうと考えた。運転手には申し訳ないが、今死ぬにはその方法しか思い浮かばないのだ。Kはふらふらと車道の方へ歩き出した。ちょうどまぶしいヘッドライトをきらめかせて、タクシーがやってきた。  まさか飛び出してくるとは思っていないだろう。それにこんな時間に走っているのは回送の車ばっかりだ。乗せる気なんてさらさらないさ、特に酔っぱらいみたいにふらついてる若い男など。きっとスピードをゆるめずに走り去ろうとするに違いない。  そんな風に考えながら、Kはタイミングをはかっていた。  数十メートルくらいの距離のところまでタクシーが迫ってきた。Kはアスファルトの車道へと踏み出した。次の瞬間には、Kはまるで水の中にでも飛び込んだかのように、アスファルトの海へすっぽりと落ち込んでしまった。          ◆  気がついた時、Kは畑の中にいた。クスリのせいで記憶が陥没してしまっていた。  見上げれば、ガラス越しに半分きりの月が見える。巨大な温室のようだ。Kの傍らには折れた木の枝が二本落ちていた。どこかから落ちたのは確かなようだ、そして枝に絡まったおかげで助かったのだ。  Kは枝を拾い上げてみた。妙に暖かく柔らかな感覚だ。そして、折れた断面からは何か樹液のようなものが……  血だ。月明かりの中で目を凝らしてみると、Kが手に持っているのは人間の腕だった。 「ぐ……」  息が止まった。その腕は肘の間接あたりでぽっきりと折れてちぎれたものだった。何かを追い求めるように硬直した五本の指がついた手、そして血糊に染まった手首。Kはそれを握りしめたまま動けなくなった。しばらくして息苦しさのために正気に返り、そしてゆっくりとその腕を地面に置いた。  それからまわりの風景の異様さに気づいたのだ。Kのまわりに立ち並んでいる灌木の群は、どうも雰囲気が異様だ。Kは血まみれのコートを脱いで立ち上がった。どの樹も一様にKの身長と同じくらいの高さだった。ちょうど立ち上がった目の前には、枝の折れた樹があった。  よくよく見つめてみると、それは樹ではなく人間だった。人間が植えられているのだ。他の樹も、全部そうだった、どの樹もこの樹も全て人間だった。まるでマネキン人形の倉庫の中へ迷い込んだみたいだ。たくさんの、たくさんの人が、黙って動かずに立ち並んでいるのだ。  腕の折れた人の樹は老人だった。折れ口から血を流し、閉じた目からは涙を流していた。口元に耳を近づけてみると、低く押さえ込んだような泣き声が漏れ聞こえる。 「ああ、す、すまない、じいさん……」  Kは異様な雰囲気の中での恐怖よりも、腕を折ってしまったことへの申し訳なさのためにいたたまれなくなり、とりあえず折れた腕をつなげてみようと試みた。だがそれはつながりようもなく、血はどくどくと流れ続けている。  このままではこの人の樹が死んでしまう、なんとかしなければ。  Kは上着を脱ぎシャツの端をちぎって、肘の少し上のあたりを縛った。とりあえずこれで出血は防げるはずだ。  状況に慣れて落ち着いてきたKは、上着とコートを再び着込んで畑の中を歩いた。自分がどういうところへ迷い込んでしまったのかを把握しようとした。歩きながら見てみると、男もいる、女もいる。美しい者もそうでない者も。皆若い。さっきの老人以外には、年寄りは見あたらなかった。  Kはとにかく歩き回った。  どこかにこの畑のあるじの家があるはずだ。もしかすると国際的な犯罪グループによる実験施設なのかもしれない。人間をあんな風に改造して、それでいったい何をしようというのだろう。あんなにたくさんの人をどうやって集め、そして改造したのか。何者が、何の目的で。  Kは自分も見つかれば捕らえられて改造されるに違いないと思い、用心深く足音を忍ばせて歩いた。  畑の端までたどり着いたとき、建物が見えてきた。赤煉瓦の四角い家だった。家のまわりの生け垣はのばし放題になっているみたいで、家全体を包み込むように生えていた。家の向こう側は広い牧草地になっている。  Kは生け垣の陰に隠れた。そこから家の様子をうかがおうとして、生け垣をかき分けた。その時、その生け垣も異様な手触りであることに気づいた。細かいツタか茎のように見えるそれは、何かの動物の剛毛のようであった。Kはゴクリとつばを飲み込み、そして生け垣の付け根を見てみた。そこには、無数のネズミがうずくまって並んでいた。茎のように見えていたのは、ネズミの毛だった。まるでハリネズミのように、ネズミの毛は逆立って真上に伸び上がっていた。ネズミ達はまんじりともしない。まさかとは思ったが、やはり足は大地に根付いていた。  いったい誰が、こんなむごいことを…… Kはしばらくその場にうずくまって、言い様のない怒りと恐怖を制御できるようになるまで動かないでいた。  だがKの気配は家で飼われている犬に悟られてしまったようだ。激しく吠えたてながら、小さな犬がKの方へ走り込んできた。Kはとっさに走った。牧草地の方へ走り込み、脇のサイロへと逃げ込んだ。犬はサイロの中まで追いかけてきた。  Kはその辺のシャベルを手に持って犬を威嚇した。暗闇の中で、目だけが二つ光って見える。犬は激しく吠える。そのうち家人が気づいてやって来るかもしれない。そんなことになったら捕らえられてしまう。Kは思い切ってシャベルで犬を叩き殺した。一撃で、犬は「ギャン!」と叫んで果てた。だが手応えが異様だった。まるで何かぱさぱさしたものを叩きつぶしたような感触だった。わずかな光をたよりに犬の死骸を探し出して外に持って出た。月明かりに照らして見てみると、なんとそれは犬ではなくキャベツだった。
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