泣き女

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 それからしばらくの間、私は店に顔を出さなかった。仕事でひどい大失敗をやらかしたせいだ。発注する材料の規格を間違えてしまったのである。更にまずいのは、事実がわかってからも報告を先送りにして、時間を稼いだことだ。  出来上がったものは当然不良品で、会社に大きな損害を与えてしまった。隠蔽などという悪あがきをしたのは、昇格が目の前にちらついていたからだ。やりがいを感じる仕事ではなかったが、いざチャンスが訪れると意識したことのない欲が出た。  失敗のおかげで昇格はなくなり、それどころか会社に居続けるのも危うくなる始末だ。仮に辞めたとしたら、なけなしの貯金だけでどれくらい暮らせるだろう。そんな計算が頭の中でひしめいた。  ひたすら家賃とローンを上回る給料だけ求めて、求人広告雑誌を何冊も買う。だがそれは、受験生が開かぬ参考書をお守り代わりに手元に置くようなものだった。元々、職を変える気力など残っていない。  暗闇が恐くて、電気を消さずに寝る。蛍光灯を見上げていると、手術台に上がったようで、麻酔のような深い眠りを期待したのだが、実際には単に寝つくのが遅くなっただけだった。  久しぶりにあの店へと足を運んだ。どんより曇った眼差しばかりが並ぶカウンターが恋しかった。ゼロは幾つ足してもゼロ、淋しい者ばかりが集まっても、淋しさは埋められない。そうわかってはいても、人肌恋しさに集まるあの店。雰囲気が馴染むと口では言いながら、どこか「この連中とは違う」とも思っていたのに、今の私はこんなにも彼らとよく似ていた。  のれんをくぐると、先輩の姿がなかった。珍しいこともあるものだ。私は、彼がよく座っている席に腰を下ろした。見慣れた顔ぶればかりなのに、いつもより更に静かである。 「亡くなったらしいよ」  コップ酒を置きながら、店主は難しい顔で言った。 「そこであんたとよく話してた人さ。一昨日ね、自分の部屋で首を吊ったらしい」  淡々とした語り口は、新聞記事でも読み上げているかのようだった。 「葬式は明後日だってさ。行くかい?」  くしゃくしゃの紙切れを差し出される。住所が記されていた。 「他の人は…」  ぐるりと見回すと、常連達は反射的に目を逸らした。店主も同様だ。持っているのが重荷だとでも言うように、メモは既にコップの横に置かれている。誰も葬式に顔を出すつもりはないらしい。  だがそれを責める気にはなれなかった。貧乏長屋の住人が、手を差し伸べ合うとは限らない。皆、自分の事で精一杯なのだ。  私はその紙を上着にねじ込んだ。押しつけ合う眼差しは、罰当番が決まってほっとしている。  本当に行くかどうかはまだ決めかねていた。「仕事が忙しくていけなかった」と言っても、彼らはきっと許してくれるだろう。それが嘘だとわかっていても。  私は安酒を一気に喉に流し込むと、二杯目を頼んだ。
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