泣き女

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 葬式は霧雨の降る、陰鬱な天気だった。傘を手にしなければならないことが、出かけるのをためらわせた。  香典は一度あの店でおごってもらったのと同じ額が入っている。一万にも満たないその金額が、彼にはお似合いな気がする。自分への香典なら、もっと安価でいいとも思う。  葬式は六畳一間のアパートで行なわれた。彼が住んでいた部屋だろう。読経する坊主のそばに、老婆と、私と同年輩の男とが座っていた。十年も若返った遺影が、真正面から笑みを送っている。最近の写真がなかったのだろう。  弔問客は私だけだった。さっさと焼香を済ませ、慣れぬお悔やみを口にしたが、老婆は上の空で、男も仏頂面だった。 「どうしようもない兄です。最後の最後まで面倒をかけて」  その言葉は棺ではなく、私に向けられていた。死んだ兄弟の罪を肩代わりでもさせるつもりか。不愉快だったが、迫力に押されて、頷くことしかできない。  自殺した理由を知りたかったが、考えてみればそんなものは誰にでもあるのだった。それに感傷的な言い方をするなら、彼はとっくに生ける屍だった。  お辞儀して立ち上がったが、引き止められる雰囲気はなく、だから思い出話を語ることも、故人を偲ぶこともなかった。やや拍子抜けしたが、葬式とはきっとこんなものなのだろう。  いざ退去しようとしたその時、私と入れ替わりに長い髪の女性が入ってきた。弔問客だろうか、黒いワンピースを着ている。  互いに身を譲り合わねば出ることも入ることもできない玄関口で、彼女は、私の存在にも気付かぬ様子で扉のところに佇んでいた。硬直している、と言った方が正しいだろうか。奥の遺影に視線を定めて、微動だにしない。つられて私も、こちらを見ている遺族らも、彼女と一緒に時を止めた。坊主の読経だけが刻々と流れている。  突然、劇的な変化が訪れた。彼女は正面を凝視したまま、ぱっと口元を覆った。そして嗚咽を漏らしつつその場にへたり込み、声を上げて泣き出した。両手の平で仮面を作り、顔全体を覆ってわあわあと、子供のように泣きに泣く。  私は呆然とそれを見守った。大の大人が、こんな風に恥も外聞もなく泣くのを見たのは初めてだった。遺族も同じなのだろう。ぽかんと口を開けている。 「彼の、お友達ですか?」  私がそう問いかけると、彼女は首を振った。友達とも、そうでないとも取れる。手を貸して部屋に上げてやる。涙で汚れた横顔は、もう決して若くはなかったが、品の良さを漂わせていた。  彼女は危うげな足取りでふらふらと進むと、震える手でなんとか焼香を終えた。 遺族に両手をついて、深々と頭を下げる。それらの間中、嗚咽はいっ時としてやまない。大きくなったり、小さくなったりしながら、読経と同様に続いていた。  頭を下げたままいつまでも泣いているので、目をそらしていた遺族らもさすがに根負けして、声をかけた。 「兄のお知り合いですか?」  彼女は血の気の薄い顔を上げた。顎のところまで伝う涙を、拭おうともしない。 「…親しくお付き合いさせて戴いていました。本当に、優しい方でした」  涙で声がかすれており、聞き取るのが難しい。弟は、舌打ちさえしかねぬ顔である。賛辞など聞きたくもないらしい。  彼女はしゃくり上げながらバッグを開き、香典と一緒に金色のペンダントを差し出した。 「あの人に、戴いた物です。お棺に収めてください」  あまりはっきりと見えなかったが、英文字が二つ交叉したデザインの物だった。私は彼の姓しか知らぬが、少なくとも彼のイニシャルではなさそうだ。 「できたらあなたが持っていてください」  辞令めいた口ぶりでそう告げられると、彼女は激しく拒んだ。いいえ、いいえと繰り返す。何か事情があるのだろう。結局彼の弟はそれを受け取らざるを得なかった。  香典袋は分厚かった。老婆はちょっと嬉しそうな顔をした。  彼女は、儀式めいた緩慢な動作で全てをやり終えると、先程の私のように引き止められるのを待つ素振りを見せ、それがないことを確認すると、仕方なさそうにゆっくりと立ち上がった。  後ろ髪引かれる風情で遺影を振り返る。別れる準備がまだできていないのだろう、何度も何度も、振り返る。そして唐突に身を翻すと、さっと私の目の前を通り過ぎて出て行った。
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