泣き女

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 駅前の喫茶店はがらんとしていた。一番奥の席に腰を落ちつける。窓は埃で曇っており、雨靄で霞んでいなくとも外の景色は見えなかっただろう。私は軽い食事を済ませるつもりだったが、彼女は飲み物だけ注文した。 「何故彼が自殺したか、ご存じですか?」  単刀直入な質問は、矛先をかわされない為だった。言葉を選ぶ余裕がないせいもある。 「…色々とあったんでしょう、きっと」  ぼそぼそと聞き取りにくい。その上答えになっていない。私は質問を変えた。 「誰から、彼が亡くなったと聞いたんですか?」  遺族から連絡を受けたようには見えなかった。彼女は沈黙している。遺影を見た時の驚き様を思い出して、当て推量を口にしてみた。 「ひょっとして、彼自身から何か送られてきたんですか? 手紙とか…あるいは、遺書とか」  どうやら図星だったようだ。彼女はさっと顔色を変えて、立ち上がりかけた。慌ててそれを押し留めて、話してくれるよう懇願する。席には戻ってくれたが、かたくなな態度は変わらない。  しばらく相手から何か言い出してくるまで辛抱強く耐えた。だが唇は閉ざされたままである。運ばれてきたスパゲティから立ち昇っていた湯気が徐々に薄らいでいく。ついにしびれを切らして尋ねた。 「それで、手紙にはなんて書かれていたんですか?」  答える声は少し震えていた。 「これから、死ぬって…」  やはり遺書か。 「理由は?」 「疲れたって。この先大していい事もなさそうだから、生きていくのが面倒になったって」  その言葉は、いかにも彼が書きそうなものだった。絶望と呼べるほど深いものではなく、失望と呼ぶにはあまりにささやかな、慢性的な憂鬱が、心を蝕んだのだ。 「衝動的なものだったんでしょうか。それとも死んだ日に、何か意味があったとか」 「わかりません。それについては何も書かれていませんでしたから。…でも、とにかく読んだ時は半信半疑で、悪い冗談であってくれたらと、もうそればかりで」  だが彼女は喪服で訪れた。それだけ真実味のある文面だったのだろう。  遺書を読んでみたかった。読めばその行間には、同類にだけ読み取れる何かが記されている筈だった。しかしその好奇心は、もう一つの好奇心に負けて奥にしまわれた。 「あなたは…彼にとって、どういう存在だったんでしょう。あなたにだけは、死ぬ理由を知っていて欲しかった。だから手紙を送ったんですよね」  聞いているのかいないのか、彼女は何も答えない。私は次々と質問を変えていかなければならなかった。 「手紙が届いたのは、いつですか」 「開けたのは昨晩ですけど…消印は一週間くらい前になっていました。郵便受けはあまり開かないもので、届いている事に気付かなかったんです」 「だとすると死ぬ二、三日前にポストに入れたんでしょうね。もしかしたらあなたに止めてもらいたくて送ったのかも知れない」  狂言自殺という言葉が浮かぶ。あるいは賭けか。彼女が来てくれたら、死ぬのをやめる。来てくれなかったら…。  責められていると受け取ったのだろう、彼女はキッと睨みつけてきた。 「私のせいだって言うんですか?」 「いえ、そんなつもりでは…」 「私は…私だって、あの人とそんなに親しかったわけじゃないんです。ただ一ヶ月くらい前に偶然街で出くわして…立ち話して…本当に、それだけだったんです」 「立ち話?」  私は驚きを隠せなかった。 「そうです。それも十分程度お喋りしただけで…」  それではほとんど赤の他人も同然ではないか。  だとすればきっと、手紙の受け取り主は誰でも良かったのだ。死を決意するに至り、自分の話を聞いてくれる人間が必要だった。それなら納得がいく。  彼女よりは親しかったとはいえ、私に出さなかったのは正解だ。読み終えたところで、死を確かめに訪れる勇気などなかっただろう。あるいはそうわかっていたから、彼女を選んだのか。それに万が一を期待するなら、男より女の方がいい。 「年賀状を出すって言うから、住所を教えて…そういうつもりだなんて、思いもしなかったんです」 「そういうつもり?」  ああ、遺書を送りつけられたことか。勝手にそう頷いていると、彼女はためらいがちに、それでいてはっきりと言った。 「…お葬式で泣いて欲しい。あの人は、そう書いてきたんです」 「泣いて…欲しい?」  雨音が、ひどく遠く聞こえる。彼女はこくりと頷いた。 「自分の為に、涙を流してくれないか。そんな書き出しでした」 もし泣いてくれるなら…と、二人の出会いやその後の関係について細かい設定が書いてあったという。 「勿論全部嘘ですけど。他の人に聞かれたら、こう答えて欲しいって」 「じゃあ、クラスメートっていうのは…」 「それは本当です。ただあの人が考えた設定はあんまり出来過ぎてて…私はヤクザにからまれた経験なんてないし、だからそんなところを彼に助けられたなんて、とても言えなくて。遺志だから、迷ってたんですけど…」  彼は、若い頃喧嘩が強かった事をしきりに自慢していた。武勇伝は数多く聞かされたが、現実的にはありえないシチュエーションも多く含まれていた。 「手紙と一緒に、お金が包んでありました。ペンダントも。どっちもお返ししましたけど。凄い額でしたし、ペンダントは、ちょっと戴けないなって…」  金は、泣いてもらう為の報酬か。分厚かった香典袋が脳裏によぎる。きっと全財産か、それに近い額だろう。死んだら必要なくなるのだから、くれてやっても構わぬわけだ。  ペンダントの方は、おそらく芝居の小道具だ。その「思い出の品」を活かしたエピソードも手紙に記してあるに違いない。  どんなにか一生懸命、その「設定」を考えた事だろう。小道具を探すために街をぶらつく彼の姿が脳裏に浮かんだ。  私は目の前のスパゲテイを一気にかき込んだ。冷えきって、固まって、喉に詰まりそうだった。それを水で流し込み、口元を拭う。 「…お金を受け取らなかったのに、どうして泣いてあげたんですか?」  うつむいたまま、彼女は申し訳なさそうに答えた。 「なんだか可哀想で。ちょっとお話しただけの私にそんな事を頼むくらい、淋しかったのかと思うと…」  心から悲しんであげられたら、もっとよかったんだけど。囁くようにそう言い足した。
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