【短編】天に背き夕闇、月を抱く

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 水底に似たあわい夕闇が、また長い夜を連れてくる。  女の滑らかに白い足首が、薄暗い荒ら屋の中、月長石の光を放つ。しっとりと水を含み、ありありと生々しく、そうでありながらこの世のものではない。  ――天女。  男はその細い足首を掴み、片隅に落ちていた古い縄を幾重にも巻きつけた。もう片方の縄の端を、荒ら屋に剥き出しになった太い柱に結びつける。  出し抜けに拘束された女は驚き、目を円くした。が、さして抵抗はしなかった。 「……わたくしを、天に帰さぬおつもりですか?」  女は咎めるでもなく男に聞いた。  狭い荒ら屋の中は、すでに闇の底へ落ちかけている。夜がすぐそこまで迫っている。  男は女の問いに答えもせず、その発光するように白いふくらはぎに手を伸ばした。  指の腹が、女の皮膚に沈み込む。思いのほかみずみずしい弾力があり、それをたしかめるように五つの指に力を込めた。  そのまま指を這わせ、女の薄衣に腕を差し入れる。  あわい紺青の闇に、せせらぎのような衣擦れが流れた。その音に、思考が鈍り陶然とした。  左手で女の腰帯の端を掴み、一気に引いた。解かれることを待っていたような、無抵抗な結び目。  しゃらり、と剥き出しの地面に天の衣が落ちる。とたんに立ちのぼる、目の眩むような女の匂い。  男は思わず息を呑んだ。夕闇に浮かぶ、朧月にも似た美しい裸体。  ――極上の女。  この女にふたたび会うため、三十年を費やした。言葉通りの、血を吐くような三十年だ。
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