25人が本棚に入れています
本棚に追加
女が男のもとにやって来たのは、そのひとつきほど前のこと。
男はその日も激しい川の流れの中にいた。瞑想し、ただ一心に聖句を唱える。
冷えた流れは針のように男の脚を刺し、ずいぶん前に感覚が消えた。聖句を発し続けた喉は、研いだ刃に切り刻まれたようで、またその痛みも麻痺しはじめていた。水は目の前に腐るほどあるというのに、もう幾日飲んでいないだろう。
すでに三十年近く、満足に食べたことも寝たこともなかった。あらゆる感官を制御し、己の身体を限界まで痛め続け、生と死の境目で禁欲の日々を送る。
これを苦行という。
苦行を積むと、その痛みと引き換えに、身体の中に熱が生まれる。その熱を長い年月身体に溜めれば、それがいつしか〈力〉へ変わる。
神々さえも呪い、天上世界を破壊する、恐るべき神秘の力だ。
世の理を超えるその力を望み、苦行に身を投じる者たちを、苦行者という。
男が苦行に勤しんでいたそのとき、川面をすべる風の流れに一筋、甘い匂いが混じった。男は聖句を唱えるのをやめ、鼻先に意識を寄せた。その匂いが、とたんに遠い記憶を呼び覚ます。
男は確信した。
これは花や、蜜の匂いではない。たしかにあの女の匂いだ。
わき立つ興奮をようやく鎮め、平静を装い、祈るような思いで瞑っていた目をゆっくりと開ける。
女は水際に立ち、男を見ていた。
――銀波。
男の背骨に稲妻のような震えが走る。
男の長い地獄の日々は、すでに万を超えていた。恐るべき〈力〉の完成は近い。その完成を無にするために、天帝はついに天上一の女を送ってよこしたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!