【短編】天に背き夕闇、月を抱く

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 天人たちは、苦行の〈力〉を恐れる。それは非力な人間が自分らを害することのできる、唯一の力だからだ。それゆえ天帝は、天女を遣わし、苦行者の妨害を試みる。  天女は天上世界の娼婦だ。みな一様に美形に生まれ、神々のために舞い、うたい、夜伽をする。苦行者のもとに派遣されれば、流し目を使い、妖艶に舞を舞い、豊かな胸元をはだけ、執拗に苦行者を誘惑する。  並の人間に、天女と交わる機会など、そうそう与えられるものではない。それゆえ大抵の男は、麗しき天女の誘惑にたやすく降伏する。長年禁欲を守ってきた苦行者なら尚更だ。  ある者は、女に触れるまでもなく、無意識のうちに精液をほとばしらせる。またある者は、苦行の果報を自ら擲ち、敵であるはずの女と交わる。  たった一度きりの射精により、長年身体の中に溜め込んできた苦行の熱は、無へと帰される。  それこそが天帝の狙いなのだ。  天上より遣わされた天女の誘惑――それは苦行の完成へと至る最終関門であるが、それは大抵果たされない。いっぽう、目的を完遂した天女は、意気揚々と天上世界へと戻っていく。  これまでも幾度か、男のもとにも天女がやって来た。明らかに人の女とは違う、甘く、頭が痺れるような匂いをあたりに漂わせて。  苦行に明け暮れる男の前で、天女は踊り、その薄衣を脱ぎ、執拗に誘惑を続けた。あまりに相手にされず、業を煮やして男の首筋に舌を這わせた者もあった。だが何をされても屈服しない強情な苦行者に音を上げ、あるいは屈辱に柳眉を逆立てながら、天上世界へ帰っていった。  この三十年、男はただひとりの天女を待っていた。  三千を数える天女の筆頭、銀波――この世の美の頂点に立つ奇跡の天女、その人を。
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