【短編】天に背き夕闇、月を抱く

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 男が岸へと上がり、住まいとしている荒ら屋へと向かうと、銀波は何も言わず男の後をついていった。男も振り返らずに歩いていった。その身体から漏れ出る甘い匂いが、天女の存在をありありと男に知らせてくれた。  朽ちかけ、草木に侵食され、もはや雨風を防ぎもしないその襤褸屋の前に腰を下ろす。天女は少し距離をとって立ち止まり、何も言わぬまま男を見た。  男のほうも、その存在をたしかめるように、女の姿を遠くから眺めた。  絹糸より、色濃く艶めく銀の髪。それは白銀の波にも似て、ゆるやかに足もとまで流れおちる。ふたつの瞳は磨かれた藍玉。昼の木漏れ日を映し、水面のようにきらめいた。雪白の肌は清く滑らかで、その薄衣に豊かな曲線が透ける。  ただそこに居るだけで、風は柔らかに、大気は光を帯びる。道に迷った幼な子がようやく見つけた母のように、物狂おしく、切なく、甘い、美しい幻。  間違いない。銀波だ。 「……俺を誘惑しないのか?」  揶揄うような口ぶりで男は声をかけた。その問いに、天女はふわりと笑みを浮かべた――まるで青睡蓮が綻ぶように。 「旦那様は一筋縄ではいかないと、他の天女から聞いております」 「だいぶ嫌がらせをしてやったからな。きっと天女のあいだでは嫌われ者だろう」  そよ風のような天女の笑い声が、やさしく男の耳朶を撫でる。 「銀波とお呼びください」 「知っているよ。その名ははるか昔から地上でも有名だ。天帝がことさら寵愛している天女だと」  すると天女は、しなを作ってその場に腰を下ろした。大きな瞳がまっすぐに男を見つめる。  その視線にからめとられ、腹の底がさざなみ立った。とっさに地面に視線を落とす。  ゆっくり息を吐く。またちらりと見やれば女の姿は、空から降った月の雫のようだった。  ふたりはしばらくそのままでいた。
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