【短編】天に背き夕闇、月を抱く

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 にわかに降り出した霧雨。 「そこは、寒くないのか。こちらに来たらどうだ。何もしない」  そう言ってしまった後で、男はその言葉の矛盾に気づく。  女は自分を誘惑するために来たのだ。莫迦にされたと思ったかもしれない。  だが天女は婉然と笑みを返し、男の隣に座り直した。 「これほど恐ろしい姿をした男を相手にせねばならぬとは、天女も気の毒なものだな」  男は長年気にも留めなかった、自分のおぞましい姿を思いだす。  長年の苦行で身体は骨と皮になり、肌は垢に塗れ、伸び放題の髪と髭には虫や枯れ草や木の枝が絡まっている。自分ではもう判然としないが、ひどい悪臭もするだろう。目に入れることさえ汚らわしく、気味が悪いはずだ。森の獣の方が、ずっと気高く美しい。  天女はそれに答えもせず、ただじっと男の隣に座っていた。  日が山際に落ちかけた。  天女がふいに立ち上がる。そのまま天へ戻っていくように見え、とっさに男はその細い手首に縋った。 「……明日も、また来ます」  母親が幼な子に言い聞かすような、やさしい声音。その言葉を聞き、男は手の力を緩めた。  天女は男を安心させるかのように、またふわりと笑った。  翌日、その言葉通りに天女はやって来た。  それから毎日、日の暮れる間際まで、ただ男のそばにいる。
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