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「え」
並んでシャワーを浴びながら隣を見ると、葵の耳の付け根あたりに鬱血痕のようなものがあることに気がついた。髪が濡れて張り付いていなればわからないぐらい微妙な場所。派手なグループの友人から自慢げに見せられたのと似ているそれは、キスマークじゃないかと思った。
「なに」
水泳部だったくせにあまり焼けていない肌に水が流れ落ちて行く。
俺たちがまだ2年だった頃、部内で事件があった。葵が水泳部の先輩に襲われたのだ。一人で練習していた葵が更衣室に入ると、先輩が突然覆いかぶさってきたのだという。たまたま他の先輩が一人で練習している葵を気にかけて見に来たおかげでそれは未遂に終わったが、いつもは気丈な葵もさすがに真っ青な顔をしていた。俺も見せてもらったが、よほど強く掴まれたのか葵の腕にはしばらく消えない痕が残った。
葵を襲った先輩は自主退部した。当然その件は顧問の耳にも入ったが、葵が何も言わなかったし、退部した先輩や、なによりも葵自身のために大事にはしないでおこうという配慮から事件はうやむやに終わった。けれど噂というのはどこから湧くものか、一時は葵が男にレイプされたという根も葉もない噂が立った。
「俺には理解してくれる人がいるから」
葵はそう言って笑った。俺たち水泳部はその噂を徹底的に無視した。それもあっていつの間にか噂は立ち消えになったが。
「別になんでもない」
それ以来、水泳部ではなんとなく葵の前で下ネタはタブーになっていた。
「二人とも早くしろよー」
「悪い、今着替える」
葵の首筋から目をそらし、シャワーのコックをひねりながら俺は答えた。
「あいつらずるいよな。鍵の開け閉めは人にさせといてさ」
「まったくな」
髪を拭きながら俺たちは顔を見合わせて笑った。
水泳部では着替えなんて日常的だったから、誰も隠しながら着替えたりしない。けれどあの事件があってから、葵のことだけはみな暗黙の了解みたいにあまり目を向けないようにしていた。
「あ」
「どうした?」
背中合わせで着替えていた俺は声に反応して振り返った。
「いや眼鏡をどこに置いたか忘れてただけだ。そっちに置いたんだった」
しっとりと濡れた髪から落ちた滴が、俺よりも細い肩に落ちる。鎖骨のくぼみに沿って流れ落ちて行くのまで見えた。
俺はなぜか罪悪感に駆られて目線を落とす。少し脱ぎかけた水着が腰骨のあたりで止まっていた。
そこに。
「どうした?」
「あ、いやなんでもない」
俺は慌てて前に向き直って視線を葵からそらす。それからそそくさと着替えを終えた。
「行こう」
「ああ」
鍵を職員室に返してから、コンビニに寄ってアイスを食べようなんて話した帰り道。俺は何事もなかったかのように振舞ったけれど、脳に鮮烈に焼き付いたそれが頭から離れなかった。
蛇の絡まる南京錠。
ちょうど水着を着ていては目に入らない腰骨のあたりにそれはあった。ほんの一瞬しか見なかったけれど多分、刺青だと思う。その南京錠はがっしりと閉じられ、鍵は描かれていなかった。あれは一体何だったのか。
考え事をしていた俺は少し皆から離れていた。それに気がついた葵が振り返る。そして俺は、
ぞくりとした。
その理由は、いまだ知らずにいる。
蝉が、狂ったように鳴いていたーーー。
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