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けれど、それをなんとも思っていなかった。
ただ自分だけを見つめて、前に進んでいるだけだった。
でも、そんな生き方を、教師たちは快く思わなかった。
友達を作れ、皆と行動しろ、個人で行動するな。反論をすれば「それが普通だろう」と言って、彼らは頭ごなしにしか言葉をこちらに投げてこない。
普通とはなんだろうか。
正しさとはなんだろうか。
教科書に書いてあるのは、ただの知識でしかない。その中で作られる普通って何だろうか。
スケッチブックから目を離して、天井を見つめる。
石膏ボードで作られた不規則な模様を視線でなぞりながら、終わりのない思考を止めに入る。
疑問は疑問を呼んで、自分の中に溶けずに残った塩素の様な塊になってしまうことを、利香は知っていた。
それは、ゴロゴロとした感触を心に残しながら、心を苛立たせる。
思春期。
授業で習ったその言葉の中にいた時は、その感触が嫌で、常にイライラとしていた気がする。しかし、それはいつの間にかどこかに消えて、今では穏やかな中に自分がいる。
自分の怒りは、どこに行ったのだろうか。
消えて、塩素のように自分の中に溶けていったのかもしれない。心をざわつかせる奇妙なあの感情。
でも、あの怒りの中に何かを見ていた気がする。それがなんだったのかは、もう、覚えていないけれど。
少しだけ、何かを手放してしまったという感覚が襲ってくる。
もう二度と取りに戻れない『それ』は、大事な物の筈だ。
けれど、もう二度と手には入らないのだろう。
利香は少しの喪失感を、手を握ることで解消させる。握りつぶした、と言った方がいいかもしれない。考えが奥に行けばいくほど、暗い森の中を彷徨っている感じだけになる。
スケッチブックへと視線を戻して白紙のページに、大きく睡蓮を描いてみる。
今まで複数の睡蓮という構成に縛られていたかもしれない。
描きたい物を大きく描き、インパクトを与える。それは確かに考えていなかった。
鉛筆の先からスケッチブックに、柔らかな黒が落とされる。輪郭をはっきりと描くのではなく、ぼんやりとイメージした物をなぞる作業だ。手元に参考になる写真も無いし、構図が決まったわけでもないので、メモのように描くだけで十分だった。
睡蓮の形を軽く描き終えたところで、大きな咳ばらいが聞こえた。
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