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最近、巷では、ある不穏な噂が流れている。
なんでも、身分違いの純愛を貫く恋人同士の間に、強引な手法で割って入った悪女が現れたらしい。
「気に病みますな、奥様。一時的な噂です」
しれっといつもと同じ態度でお茶を用意するこの男、悪辣で計算高い執事のジンさんをベルは睨み付ける。
「誰が奥様よ! 呼ぶなって言ってんでしょ!」
「事実ですので」
「事実じゃない!」
「否定しても無駄です。奥様自身がご自分の手で婚姻書類に署名したじゃありませんか」
「ふぐっ……!」
……確かに書いた。 書きましたとも!
だが、敢えて言おう。
明らかにそちらが悪い。絶対に悪い!
仕事を求めたベルに、対面したのは若き美丈夫。
身なりからしてこの屋敷の偉いさん、当主か嫡男だろうと予想して、挨拶肝心とばかりに腰を折った瞬間、署名しろ、のひと言と紙を突き出されたのだ。
誰だって雇用契約だと思うでしょう?!
「ちゃんと内容を確認しなかった奥様の落ち度です」
なんだとぅ!
いけしゃあしゃあと述べるジンさんにベルは殺意が沸いた。
じゃあ言わせて貰うが、初対面の人間に理由も言わず婚姻書類を渡したヤツは悪くないのか!
「残念ながら頭の煮えた旦那様はあの女狐以外、目に入らぬご様子です。まさか名門伯爵家の御令嬢シャルリーナ様と、ただの平民小娘如きを間違えるとは夢にも思いませんでした」
私がその場におれば、と渋面で悔やんでいるが、そもそもジンさんがその場に居なかったのは、そのシャルリーナ様が行方をくらませたからである。
では、なぜ行方をくらませたか、になるのだが、嫁ぎたくなかったというのが答えだろう。
そりゃそうだ。
式も何もない書類上の婚姻など、聞かなくても察するものがある。
逃げて正解。いや当然だ。
「うう……離婚したい」
「ええ。女狐を追い出した後でなら構いませんよ」
無理を言うなバカやろう。
ここはアーデル公爵家。
かの巷で有名な純愛を貫く嫡男様がお産まれになった場所。そして、庶民に絶大なる人気を誇るシンデレラ、ジンさん曰く女狐が囲われた場所であり、シャルリーナ様が担うはずだったお役目を、憐れな平民ベルが押し付けられた場所でもあった。
「嫡男様に見向きもされませんが?」
「ザハル様、もしくは旦那様と呼びなさい。
そんな調子だからいつまで経っても女狐に勝てないのです」
「勝ち負けの問題じゃないと思うけど」
「ご実家への支援を打ち切りますよ」
鬼か!
と罵りたいが、ベルは今、諸事情によりザハル様のご両親にザハル様の奥様として雇われている。
表向きは伯爵令嬢シャルリーナとして。
裏は女狐追い出し要員として。
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