第一章  種子

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  3 (前)  まだ五月の中旬だというのに、外は海に入っても問題ないのではないかと思えるほどに暑かった。エコの精神を度外視(どがいし)した設定温度の冷房を効かせ、スマホに送られた都内の地図を横目に見ながら中古で買った愛車を走らせる。  〈指令処刑〉の執行命令は通報場所から比較的近くにいる処刑隊員に連絡がいくことになっている。地図によると〈忌み人〉目撃の通報があった場所は、律樹の住むアパートから十キロ程度しか離れていないため、例に漏れず比較的近場にいた律樹が執行を指示された。  しかし、律樹が〈忌み人〉を手に掛けられないことを〈忌み人〉関係の対応を任された政府の人間は既に知っている。そのためなるべく早く律樹が処刑に慣れるように指示自体は彼の元へ来るが、それと同時に律樹がしくじったときも想定して、同じ都内に居を構えている碓氷(うすい)麗乃(れの)が律樹への指令を一緒に受けるというのが、ここ数か月で慣例となってしまった。  律樹は運転しながら狭いシートで背筋を伸ばし、少し強めにアクセルを踏む。ただでさえ碓氷には自分の尻拭いのようなことをさせてしまっているのに、その上待たせるわけにはいかない。  地図上に表示された赤色のピンのそばに近づいた律樹は、付近の駐車場に愛車を停め、後部座席に寝かせてある刀を掴む。まだ通報現場に到着しただけだが、緊張感で心臓が早鐘(はやがね)のように耳元でうるさく鳴っている。  一つ大きく深呼吸をして、周囲の景色と地図を照らし合わせる。十階建てのアパートが等間隔に並んでおり、付近には小さな公園が一つだけ。〈忌み人〉は団地のどこかにいるらしい。  刀を袋にしまったまま団地の敷地内に足を踏み入れ、目の前に佇む一棟を見上げると、壁面にA―1と書かれているのが目に入る。スマホに視線を落とし、親指と人差し指で地図を拡大すると、二つ先の棟にピンが立っている。ここがA―1ならば、目的の棟はA―3あたりか。  詳細な位置を特定すると、駆け足で目的の棟を目指す。疲労感を感じるほど走っていないのに、なぜか息が早くなる。  刀を抜く覚悟が決まらないまま、目的のA―3棟に到着すると、突然二階の中央付近の部屋から耳をつんざくような女性の悲鳴が地上まで聞こえてきた。  おびただしい数のポストを横目に見ながら、脊髄(せきずい)反射(はんしゃ)で建物の中央に設置された階段を駆け上がると、左右に伸びる廊下の右側、一番手前の部屋の扉が開け放たれているのが目に飛び込んでくる。  ごくりと唾を飲み込み、とっさに袋に入ったままの刀を構えると、部屋の中から(ほほ)に数滴の血を付け、白いワンピースの上から律樹と同じ薄い青紫のマントコートを羽織った若い女性がゆらりと姿を現す。視線を落とすと彼女の右手には、刃渡り七十センチ程の鍔のない真っ白な合口(あいくち)(こしらえ)の日本刀が握られていた。  「ああ、やっと来たのですか。〈指令処刑〉ならもう私が執行してしまいましたよ」  気品すら感じられる、ゆったりとした口調。華奢(きゃしゃ)な身体に、玉のような白い肌。どこかあどけなさを残しながらも整った顔立ちと高い位置で括られたポニーテールの親和性は高く、〈立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百合(ゆり)の花〉を体現したような女性。頬に飛んだ返り血さえ、雪原(せつげん)に落ちた椿(つばき)のよう。  彼女――碓氷(うすい)麗乃(れの)は、再び口を開く。  「(おそ)かりし由良(ゆら)之助(のすけ)、という言葉をご存知ですか?――今のだれかさんにピッタリの言葉だと思うのですが」
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