第一章  種子

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  3 (後)  忠臣蔵(ちゅうしんぐら)を知っている律樹は、彼女の皮肉に打ちのめされながらも、心の中ではどこか安堵感を覚えていた。また碓氷に処刑を任せてしまった後ろめたさももちろんあったが、それ以上に自らの手で人を殺めずに済んだことが重要だった。  「すみません。急いだつもりだったのですが、間に合いませんでした」  碓氷は露骨(ろこつ)に大きな溜息を吐くと、刀をドアノブに立てかけてマントコートを脱ぎながら言う。  「敬語はやめてくださいと何度も申し上げたはずです。私の方があなたより年下なのですから」  初めて彼女と会った時の自己紹介を思い出す。たしか、都内のお嬢様大学に通う大学生だったか。完成された美貌(びぼう)と、いつも尻拭いをさせてしまっている負い目から、彼女が年下であることを忘れてつい敬語を(つか)ってしまう。  「すみま――、すまない」  碓氷は刺すような冷たい視線を律樹に向けると、立てかけていた刀を手に取って言う。  「その様子だと、まだ覚悟が決まってないようですね。――『この役目を誰かに委ねたときに訪れるかもしれない最悪の未来を見たくない』、でしたか」  処刑隊への参加者が一堂に会したあの日、スーツ姿の男に対して律樹が放った言葉を碓氷が一言一句違わず口にして、クスクスと笑う。  「何がおかしい?」と、碓氷の蔑みを含んだような笑いに、思わず突っかかる。  碓氷は嘲笑(ちょうしょう)を引っ込めると、おもむろに右手に持った刀を左手に持ち替えて鞘を払い、鋭い切っ先を律樹の首筋の辺りに向ける。処刑人同士の争いは禁じられていると分かっていても、律樹はその威圧感にたじろぐ。  「幸せな人。世界中で、自分だけが本当の〈正義〉を知っているかのような顔で振る舞う悲しい人。――早く自身の決定的な矛盾に気づかないと、あの日披露した砂糖のように甘い考えと一緒に大きなものを失ってしまいますよ」  聖女を連想させるような語り口で、碓氷は律樹に向かって滔々(とうとう)と話す。刀を()いた聖女などありえないが、普段とは違う彼女の雰囲気が妙な説得力を帯びて、律樹の心を揺さぶる。  「俺は処刑隊に属しているけれど、〈忌み人〉を殺せないことが恥ずかしいとは思わない」  切っ先を向けられたままの律樹が口を開くと、しばしの沈黙を挟んで碓氷が刀を鞘に納める。  「何を言っても、あなたとは分かり合えそうにありませんね」  碓氷が飄々(ひょうひょう)とした態度でその場を立ち去ろうとした時、彼女の後ろから誰かが猛烈な勢いで駆けてくるような足音が聞こえてくる。碓氷が振り返ると、先ほど彼女が出て来た部屋から、手を真っ赤に染めた一人の女が姿を現した。  「どうして⁉ どうしてコウくんを殺したの?」  声を荒げて抗議する彼女は、よく見ると顔や脚に殴られたような(あざ)ができていた。どうやら〈忌み人〉となった恋人を(かくま)っていたようだが、理性のない〈忌み人〉は自身の怒りを制御できない。さしずめ些細(ささい)な衝突が、いつの間にか一方的な暴行にまで発展してしまい、隣人にその音を聞かれて通報されたといったところか。  「それはこちらのセリフです。なぜ暴行を受けていたのに〈忌み人〉を(かば)うのですか」  碓氷が突き放すように冷たく言うと、部屋から出て来た女はすかさず反論する。  「わたしには彼しかいなかったの! 病院でコウくんが息を引き取ったとき、わたしも死のうと思った。でも、彼は帰ってきた。ニュースで見て〈忌み人〉のことは知ってたけど、それでも彼が戻ったこと以外、わたしにはどうでもよかったのよ」  女性が大粒の涙をこぼしながら熱弁をふるう。しかし、彼女と話していたはずの碓氷は、会話の相手に背を向けて律樹の元まで近づき、優しく彼の耳元で囁く。  「彼女のこと、お願いしますね。私は政府に報告してきますから」  白いワンピースのポケットからスマホを取り出して、碓氷が律樹の背後にある階段へ向かうと、部屋の前に佇んでいた女性が怒りの形相でずかずかと歩み寄ってくる。  「ちょっとアンタ、どこいくのよ!」  「落ち着いてください。俺が話を聞きます」  律樹が女性の前に立ちふさがり、落ち着かせようと声を掛けると、彼女は律樹の羽織っている薄い青紫のマントコートの徽章(きしょう)へ視線を向け、キッと律樹を睨みつける。  「あんたも、〈狩人(かりうど)〉なのね……」  処刑隊には、別に正式名称など存在しない。最初に〈狩人〉と呼び始めたのはマスコミだったか、ネットの悪ふざけだったか、それすら定かではないがいつの間にか対〈忌み人〉の処刑隊は〈狩人〉と呼ばれるようになった。そして、理性を失った獣のような者たちを処刑する集団にはおあつらえ向きの〈狩人〉という名前は、国民の中で瞬く間に浸透していった。  「あの、俺でよければ話を――」  「もういい! 早くわたしの前から消えて」  自身の言葉をかき消すようにまくし立てられた怒りの言葉で、律樹は黙りこくる。何もできなかった己の無力さに打ちひしがれながら彼女に背を向けると、「申し訳ありませんでした」とひと言だけ残して階段を降りた。
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