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断章
残念です。――そんな言葉が聞こえた気がした。「残念」という言葉の意味を改めて知りたくなるくらい、乾いた響きだった。
脚に力が入らなくなり、身体が重力に従ってその場に崩れ落ちる。受け入れがたい現実から身を守るように勝手に涙があふれ、たちまち見える景色が歪み始める。
しかし、いくら涙を流そうと現実は変わらない。彼女はハンカチで涙を拭い、純白のベッドに横たわる幼い愛娘を力なく眺める。
心臓が鼓動を刻むことをやめ、二度と目を覚ますことのない娘は昼寝でもしているかのように安らかな表情だ。
「ごめんね、結衣……。強い身体に産んであげられなくてごめんね。幸せにしてあげられなくてごめんね。ごめん……ね」
いくら口に出しても足りない、いくら口に出しても届かない謝罪の言葉をこぼしているうちに唇が震え、口から出る言葉がやがて吐息の一部となって搔き消える。再び涙があふれ、雫が頬を伝ってリノリウムの床にぽとりと落ちた。
そんな彼女の背中を、温かい手が優しく撫でる。ここ数日の付き添いで憔悴しきった彼女を慰めるように、彼女の両親は言う。
「あんたはよくやったよ。結衣ちゃんもきっと、感謝してるはずだよ」
「そうだ。結衣はお前がいたから今日まで生きることができたんだ」
孫を失ったばかりであるにも関わらず、彼女の両親は必死に涙をこらえながら気丈に振る舞っている。
そんな悲しみに堪えるように身を寄せ合う家族のそばで、病院のスタッフが厳かに末期の水を用意する。幕が上がる直前の客席のように、病室が沈黙に支配された。
未開封の脱脂綿をカットして箸に巻き付けると糸で縛り、お椀に注がれた水に優しく浸す。箸を持ったまま、彼女は娘の顔を見る。
血の気を失った娘の身体は紛れもなく目の前にあり、周囲は粛々と見送りの準備を始めているのに、いまだ娘がこの世からいなくなったという実感が湧かない。自分の時間だけが世界から切り取られてしまったかのように、その動きを止めている。
――ごめんね、結衣……。
「お母さん、泣かないで」
ベッドから、か細い声が上がる。その場にいた全員、ベッドの上で横になる少女に目が釘付けになる。
「結衣……?」
「なぁに? お母さん」
彼女の顔を、ベッドの上の少女はきょとんとしながらじっと見つめる。
彼女は本能的に娘の細い身体を、ぎゅっと力いっぱい抱きしめた。真冬の外気に晒されたような冷たい身体を。
「そんな……。あり得ない」
医師が、その場で硬直したまま言う。看護師も同様に、目の前で起こっている出来事が信じられないといった表情で、親子の感動的な抱擁を見守る。
前口上が終わり、静かに幕が上がる。
鎮魂曲は届かず、救いの神の掌から零れ落ちた死者たちが招く、悲劇的な物語の幕が。
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