死にかけの魔女とよだれオオカミ

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死にかけの魔女とよだれオオカミ

 ある深き森のその奥に、一人の少女が布切れ一枚で仰向けに倒れていた。その傍らに一匹の非常に大きな、人間の大人を乗せても困らないほどの大きな体躯をしたオオカミが、涎を垂らしてちょこんと座っていた。  少女は後悔した。 「調子に乗って森の奥深くを探検しようと思ったのが間違いだった。見て見なさいよ、こんなに獰猛そうなオオカミが下品な涎を垂らして私が死ぬのを待っているんだ。ちょっとそこの妖精たち、無視してるんじゃないよ。あんたたちのことよ」  森の至る所に飛び交っている小さな羽虫のような妖精たちが、さも話しかけられているのは自分ではないとでも言いたげに少女の近くを通り過ぎていく。 そもそも、通常人間には妖精という存在を視界にとらえるということがまずもってできないから、人間が自分に語りかけるという非日常があるわけもないとして、彼らはそっと可哀そうなものを見る目で通り過ぎていくのである。 「あいつら、私のことを気がふれた人間だと思ってやがるわ。ねえ、あんたもそう思っているんでしょ」 「……」 「しょせんケダモノか。獲物を喰らうしか能のない愚かな存在ね。ただ大きいだけの木偶の坊だったか」 「……え、わしのこと言ってるのそれ?」  オオカミが言葉を発するわけがないと、普通ならそう考える。  少女にとっても、オオカミが言葉を発したことは想定外だったが、「想定外は想定内」、それが彼女の在り方だった。 「いいえ、違うわ。人語を解すケダモノよ。ところで、私お腹が空いているの、何か取ってきて」 「ケダモノて……というかやっぱわしのこと言ってたんじゃないの」 「それはあんたの捉え方次第ね。少なくとも私の中では違ったの。」 「いや、やっぱわしのこと――」 「――ちっ。」 「今舌打ちしたよね! わし知っとるよ。それ人間の悪態をつく前の儀式じゃろう?」 「ケダモノめ。」 「ほら、やっぱりそうじゃ。わし知っとるもん。そんでこういう娘はみんなしてずる賢くて何かしら要求してくるんじゃもんなあ。いやじゃいやじゃ」 「ねえ」 「なんじゃ」 「どうでもいいからお腹空いた。食べ物くれないならもういっそのこと私の喉笛を一思いに引き裂いてくれ。飢えて苦しむのは嫌だ。選べ、食べ物か、死か」 「こわ。なんちゅう脅し方をするんじゃ。近頃の人間は恐ろしいのお。」 「あんた、お腹空いてるんでしょ? 汚い涎が出てるよ」 「汚いは余計じゃ……ああ、寝起きで涎が垂れてしもうたわ」 「なに、あんたあれで寝てたの……寝首を掻くのが正解だったか。」 「聞こえとる」 「勝手に独り言聞かないでよ」 「理不尽の極みじゃの」 「さっさと食べ物をよこしなさい。でないと寝首を掻くわよ。」 「開き直っとるし、野盗のような物言いじゃし。身動き取れないほど疲労がたまっておるくせに口だけは元気じゃのう」 「何言ってんの。もう悪態つくのも限界なくらいしんどいわ」 「つかなきゃいいのに。」 「あんたが食べ物を献上するまで悪態をつくのを止めない」 「ひどいのうこれ。わし、食べ物を用意しなかったら悪態をつかれるし、言うとおりに用意したら、わしは自らお前さんより下であることを認めることになる。」 「別にいいじゃない」 「『献上』という言葉を無くしてくれたら用意するのもやぶさかではないぞ」 「言葉にうるさいわね。そういう細かいのは嫌われるよ」 「お前さんの悪態ほどではないわ。お前さん魔女だろうて、言葉には敏感にもなるわい」 「なに、分かるの」 「妖精に話しかけるのは気狂いか魔女くらいじゃ。」 「残念。ぼろ雑巾みたいに雑に扱って使い捨てようと思ってたのに」 「こわ」 「まあいいわ。じゃあ私になにか食べ物を奏上してくださいな。美しいオオカミさん」 「『奏上』て……さっきよりももっとへりくだらないといけないのでは。もっと別の言い方で――」 「――さっさと食べ物よこせ」 「これはひどい」  悲劇的だが、最後の悪態が小さな魔女の最大限の譲歩だった。オオカミはいささか不本意ながら、数分後には彼女のために食べ物を口にくわえて持ってきた。その獲物をオオカミは仰向けの少女の傍らに置いた。 「何よこれ」 「ネズミじゃ」 「生じゃない」 「生じゃいかんの?」 「いかんわ」 「知っとった」 「腐れオオカミ」 「そこまで言われるいわれある⁉」 「皮剥いて焼きなさいよ。それでようやく食べ物よ」 「わし、火が怖いから。あと皮がむける形をしておらん」  そう言ってオオカミは自分の前足を見つめる。 「あーあ、あんた、やっちゃったわね。私に『食べ物くれる』って言ったもんねえ。これは契約違反だわ」 「ええ! わし、言ったっけ!?」 「言ったわ」 「うそ、わし、『これはひどい』としか言っとらんもん」 「記憶の捏造ね」 「どっちがじゃ。油断ならんの。さて、お前さんにこの食べ物をやる代わりに、一つ頼みを聞いてほしいの――」 「――短い人生だった」  そう言って少女は目を閉じた。 「――じゃが待てい、もう少し頑張ってネズミ捕ってきたいたいけな生き物の話を聞いてやるくらいせんか」 「薄汚いオオカミの頼みごとを聞くことほど嫌なことはないわ」 「そんな頼み事あんまりないじゃろうて。しかもその言い草はあんまりじゃろうて」 「しかも、その話を聞いたとして得られる報酬が生ネズミだとね、やる気が、出ないわ」 「木の実もあるのう」 「仕方ないわね。話だけよ」 「よしきた」 「短めにね」 「こどもの世話をしてほしい」 「嫌」 「早」 「さあ、よこせ。木の実を」 「いや、わし一言も木の実をやるなんていっとらんし」 「わたしは『その話を聞いたとして得られる報酬が生ネズミ』と言ったわよね。それに対して貴様は『木の実「も」ある』って言ったのよ。あなたは私の言葉に訂正を加えることなく私の言葉を受け入れた、そういうことになる。反論もないわね。」 「あいやー、そうじゃったっけ。しかしのう、わし、『よしきた』としか言っとらんのう」 「『よしきた』ってのはもはや「それでいい」ってことでしょ」 「それでいいときは『それでいい』ってわし言うもん」 「このタヌキが」 「わしオオカミじゃし」 「もういい、死ぬわ。おいしい木の実を食べたい人生だった」 「お前さん、全然死ぬ気ないじょろ」 「じょろ?」 「そこに食いつくんかい。オオカミ並みの食いつきじゃのう。それはいいとして、お前さんもう少し下手に出るということも覚えたらどうなんじゃ。せめて常に相手の隙を伺う姿勢はどうにかならんのかのう」 「隙を見せたり、弱みを見せることは死ぬことと大差ないわ」 「そんなに壮絶な問題!? それにその言い草じゃとわしの命を狙っているように聞こえるんじゃが。それはいいとしても、お前さん今にも死にそうじゃし、今この瞬間だけでも強がらなくてもいいんじゃないかの。どっちみち死は近いんだもの」 「そう言って隙を見せたら私を食べるんでしょう」 「それならこんなまどろっこしいやりとりなんかせず、ガブッといっとるわ」 「いいえ、そんなことを言いつつ木の実を食べて太った私を食べるんでしょう。あぁ、恐ろしい。仕方ないから木の実を食べてあげるわ」 「お前さん、そろそろ欲望を隠し切れなくなっとるの。理屈がガバガバじゃし。しかし、お前さんにこどもを任せて大丈夫か不安になってきた」 「いいわ。こどもでもなんでも育てるわ。だから、さっさと木の実を食べさせろ」 「え、いいの!? いや、しかし、いや今さらか。よし食べさせてやろう。しかし、約束じゃぞ。」 「いいから木の実を……」 「よしきた! いかん、お前さん目が死んどるぞ」  オオカミは少女の傍に近づき、口を大きく開けた。ダラーっと涎が垂れると同時にたくさんの色とりどりの木の実が少女の顔の横にぼとぼとと落ちた。それらは雨に濡れた蜘蛛の巣が太陽に照らされた時のような輝きを見せていた。 「騙したな」  こうして小さな魔女はねばねばの木の実で命を繋いだ。やがてオオカミと魔女はその場を離れ、森のどこかへと消えていった。残されたのは妖精たちのひそひそ話。森は静寂を取り戻したという。 「また、生き永らえたか」  ネズミは再びその小さな足で大地を駆けた。
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