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第9回 評決
1982年・アメリカ映画
監督:シドニー・ルメット
脚本:デヴィッド・マメット
出演:ポール・ニューマン/シャーロット・ランプリング/ジャック・ウォーデン/ジェームズ・メイソン/ミロ・オーシャ/リンゼイ・クルーズ 他
<STORY>
かつては己の正義を信じていた弁護士フランク・ギャルビンは圧力に負けて以降は落ちぶれてばかりだった。ある日、医療ミスによって植物人間状態にされた女性の妹夫婦から弁護を頼まれる。あまりやる気が無かったギャルビンだったが、当の患者をじかに見てからというもの、「このままでいいのか」という思いを抱く。
<感想>
名監督、名優が揃っているだけあって見応え充分の法廷劇。ですが、シナリオが結構粗っぽい。この粗さえ無ければもう少し評価高かったと思います。本作はアカデミー賞5部門にノミネートされたものの、全て受賞には至りませんでした。初見時は「こんな良い映画がどうしてアカデミー賞獲れなかったんだろう」と不思議に思ったのですが、獲れなかった要因としてこの粗を見抜かれていたからではないかと考えてしまいますね。
一番目立つ粗としてはポール・ニューマン扮する弁護士のギャルビンの独善的な言動。人に相談しなさすぎるところは観てて結構気になりますね。特に依頼人の夫婦をあまりにも無視し過ぎ。
医療ミスで植物人間状態になった患者の妹夫婦が弁護を依頼してきた時は「キャリアの立て直しのスタートとして無難にいくか」と病院と裁判はせずに和解に持ち込む方針でした。が、当の患者をじかに見て正義の心が復活します。それはいいんですけど、病院側が相応の金額を支払うと提案したら「金で解決したら全てが闇に葬られてしまう!裁判で勝負だ!」とはねのけてしまいます。依頼人夫婦に断りなしに。
のみならず、いざ裁判という段階になるまで依頼人夫婦とは全く連絡をとらないという有様。案の定、夫の方が「勝手に裁判始めやがって!」と大激怒。これは殴られても仕方のないところです。「勝算はあるんだ」と言いますが、展開的には負けてもおかしくなかったですよ。勝ったから良かったものの、負けたら主人公はあの夫婦にどう言い訳するつもりだったんでしょうか。
裁判が始まったら始まったで依頼人夫婦は完全にモブになってしまうのもどうなんでしょうか。話の主軸は落ちぶれていたギャルビンが再起をかけるところにあるので、どうしても依頼人夫婦は脇役にならざるを得ない。にしても扱いがお粗末過ぎる。たまに思い出した様にギャルビンの前に現れて狼狽えるという事しかしない。シナリオ自体が依頼人夫婦を重要視していない乱暴な作りなのがずっと気になって仕方がなかったですね。
↑話が進むにつれ影が薄くなっていく依頼人夫婦
その次に気になったのは判事の存在。主人公ギャルビンをほぼ孤立無援に追い込んで「果たして裁判に勝てるのだろうか」と緊張感を高めたい作り手の意図は分からなくもないですよ。にしてもですよ。検事のコンキャノンは憎まれ役だから仕方ないとしても、判事まで敵になってしまうというのはやり過ぎでは。初登場時から悪人面してるし、「絶対この判事は検事(病院)に肩入れしてるだろ」と思しき発言しかしない。
極めつけはギャルビンを差し置いて証人にいきなり質問する始末。ギャルビンが制止すると「私にも証人に質問する権利がある!」などと抜かします。裁判に関する知識は全く無い僕でも「こんな判事いないだろ」とつっこみたくなるほどの傍若無人ぶり。笑っていいのか怒っていいのか分かりませんでした。
繰り返しますが作り手の意図は分かります。どんなに追い込まれてもギャルビンが諦めずに裁判をやり抜く姿勢を描きたいんでしょう。検事や判事はあくまでもギャルビンの引き立て役に過ぎない。しかし、あまりに追い込む事に重点を置きすぎて、リアリティとエンタメのバランスを崩してしまっていると思います。
映画は基本的に観る者を約2時間釘付けにさせてナンボ。あまりリアリティを重視し過ぎると面白い絵が取れない。面白いストーリーが作れない。だから多少の誇張はあっていいでしょう。ですがエンタメ重視し過ぎると身近に感じられず完全に絵空事になって楽しめない。面白い映画というのはリアリティとエンタメをバランスよく調整出来ている映画だと思うのです。この前提で観ると『評決』は人物描写の仕方がエンタメに振り切り過ぎてますね。
↑中立の立場にいる気は更々無い悪魔のような判事
文句ばかりになりましたが、それでも見ごたえのある内容に仕上がっているのは役者陣の力に因るところが大きいでしょう。特筆すべきは検事コンキャノンを演じたジェームズ・メイソン。出番は映画全体の3分の1ほどですが、それでも存在感は抜群にあり、そのキャラクターは実にふてぶてしく憎たらしい。ポール・ニューマンが主役でなければ食われてもおかしくない最高の悪役でした。
終盤近く、原告側が切り札の証人として看護師ケイトリン(リンゼイ・クルーズ)を呼んだ時もただひとり狼狽えない。それどころか「虚偽の発言はしないと誓ったはずでしょう?」と静かに詰問し、証言を翻させようとする。圧巻です。なんて食えない男なんでしょうか。
恐らくコンキャノンもケイトリンが嘘をついているとは思っていない。しかし、ここで引いてしまうと確実に流れが変わって劣勢になる。だから「嘘をつくのはよせ」と言う事でケイトリンをビビらせて本当の事を証言させまいと威圧している。これを過剰なオーバーアクトを排して眼だけの演技で語るのですから、ジェームズ・メイソンが如何に凄い役者なのかが分かります。
↑本作最大の功労者である鬼検事コンキャノン(右)
さらに素晴らしい箇所がもう1つ。威圧に屈せず証言を続けるケイトリンに「4年前の事をよくそんな覚えているものですね」とあざ笑うも「当然です。問診記録のコピーがあるから」と提示された時のコンキャノンが一瞬見せる表情。一見平静を保っていますが、内心は完全敗北を確信したでしょう。それを台詞ではなく表情で説明するテクニックは本当に見事だと思います。
病院側に有罪判決がくだる場面を境にコンキャノンや被告側の人物は一切画面には映しません。下手な娯楽映画だと負けた相手側の悔しい表情をこれ見よがしに映して観客のカタルシスを誘おうとするでしょう。しかし、本作はそれをしませんでした。
言うまでもないですが、本作の内容はコンキャノンを叩きのめす事が主題ではないのです。だからコンキャノンらの悔しがる表情を見せてカタルシスを、なんていう安っぽい事はしない。それにカタルシスならば「問診記録のコピーがある」と言われて驚愕したコンキャノンの表情があります。あの表情さえあれば充分なんです。こういった大人の演出があるからこそ、本作は現在の目線でも鑑賞に耐えうる作品になっているんだと思います。
ただジェームズ・メイソンが素晴らしかった反面、残念なキャストもありました。ハッキリ言ってシャーロット・ランプリングはミスキャスト。彼女自身は良い女優さんだと思います。しかし、一見裁判だの何だのとは縁の無い市井の人としてギャルビンと接点を持ったけど、実は検事コンキャノンとグルだった・・・という設定の人物を演じるにはランプリングはそのまま過ぎる。
ギャルビンの馴染みのバーで初めて知り合うくだりにしても、あの大勢の客の中にシャーロット・ランプリングがいたら目立つし怪しいですよ。だから後々にその正体を明らかにされても「コンキャノンとグルだったのか!やられたー!」というサプライズに繋がっていない。ケイトリンを演じたリンゼイ・クルーズ辺りだったら、また違った印象を持つかもしれません。そこはちょっと残念でしたね。
↑ハナから怪しさ全開のシャーロット・ランプリング
かといってランプリングの存在が映画を駄目にしている訳ではない。彼女とのやり取りもそんじょそこらにある恋愛映画と違った形で幕をおろしているのも素晴らしいと思います。特に最後の最後。ランプリング演じるローラはギャルビンに電話を掛けます。何を話すつもりなのかは定かではありません。謝罪なのか、それとも釈明なのか。どちらとも取れる表情をするのです。
一方でその電話が掛かってきても、受話器を手に取ろうとしないギャルビン。明らかにローラから掛かってきていると分かるのですが、取らない。その表情は何とも言えない刹那さがありました。
二人共台詞でわざわざ相手に対する現在の感情を吐露したりはしません。あくまでも表情で語るのです。そして、答えは明示されないまま映画は終わります。まさに大人の映画といっていいでしょう。それゆえに本筋が雑だったのが惜しまれますね。
★★★☆☆(3点)
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