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「彰、勉強教えてやろう」  俺と親父が帰宅してから間もないある日、兄貴がさりげない口調で俺に言った。少々面食らったのち、俺ははっと息を呑んだ。兄貴は、何かを決意したんだ。自分の中にきっとあったはずの葛藤に、自分で区切りをつけて、俺を支えようとしている。兄貴なりのやり方で。それまでの俺だったら、「やだよ、俺は兄貴と違って、勉強はからっきしなんだ」と言って逃げていただろう。でも、そのときそんな言葉は俺の口からは出なかった。 「サンキュー、兄貴、気前がいい!」  俺は明るく答えた。兄貴は意外にも少し驚いた顔をして、それから苦笑した。 「よし、じゃあ、苦手な数学からだな」  表面的には、家族に目立った変化はない。ただ、俺は兄貴に説得されて、高校受験の志望校を、従来考えていた剣道の活発な学校から、進学重視の学校に変更した。俺にとって、それは自分の生活の中心を占めていたものを変えるということであり、とても大きな決断だった。でも、俺は兄貴の言うことに従った。  次第に、俺は兄貴に対し、以前にはなかった遠慮をするようになっていた。兄貴に甘えて好き勝手にやっていた以前の自分は既にない。兄貴への遠慮、それは後ろめたさのためだろうか。兄貴に秘密を持ち、かつ兄貴に裏切りをはたらいてしまった気分。そういう感情が俺の中で枷のように作用しはじめた。兄貴は以前にもまして優しく、勉強も熱心に教えてくれるが、俺はそのことにかえって、抜きがたい溝を意識するようになっていた。    
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