ろくでなし

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ある夜、砂浜に珍しく先客がいた。 水面に反射する月明かりのスポットライトを受けて、眩しく輝いている一人の女性。 彼女に荷物はなく、その身ひとつで砂浜に立っていた。 後方にいる私には気付いていないようだったので、そのまま遠くから眺めていた。 彼女は海をしばらく見つめてから、波が打ち寄せるリズムに乗って歌い出した。 それはどこかで聞いたような美しい声で、しかし初めて聞く、もの悲しい歌声だった。 ただ悲しみを振り撒くものではない。聴くものの心の内にある(よど)みを想起させ、それを大海へと優しく流していく声だ。 私は気が付くと涙を流していた。 考えなしに鼻をすすると、その音で私の存在に気がついた彼女が慌てて振り向いた。 整った顔立ちに、ラフであっても綺麗な格好。どこにでもいるような親しみやすさと、この世に二人と居ないような魅了を両立していた。 驚いたままの彼女が口を開く前に、私から謝った。 「あ、えっと、邪魔をしてしまってごめんなさい。とても美しい歌声で……そ、その、涙を誘われてしまって」 「ううん、全然! こっちこそごめんね。静かな夜に、騒がしく歌ってたりしててさ」 彼女は駆け寄って、ハンカチまで差し伸べてくれた。だけれど私はその優しさを受けとる勇気はなく、自分の服の袖で拭ってしまった。 私ごときが彼女に心配をさせてしまうのはおこがましい──そういう思いが、真っ先に浮かんできた。 「騒がしくしたのは、わ、私の方よ。あなたの歌声で、悲しい出来事を勝手に思い出して……うるさく泣いてしまった、から」 「じゃあ、そんなに親身になって聞いてくれてありがとう! ……なんて言うのは、変かな? でも本当に、そこまで真剣に聞いてくれる人なんて他には居なかったから、嬉しいんだ」 おかしな理屈を言ってから、彼女は嬉しそうに、少しだけ恥ずかしそうに笑った。 それが彼女との出会いだった。 「ねぇ、名前はなんて言うの? せっかく聞いてくれたお客様なら、名前を覚えておきたいな」 「えっと……み、美六(みろく)……って言います。ちょっと変な名前、だよね」 私は、私の名前が嫌いだった。 親が熱心に考えて付けた──とはいえ、菩薩の名前というのは荷が重すぎる。 けれど彼女は、嘲笑ではなく笑顔を浮かべてくれた。 「そういうのは変じゃなくて、可愛いとか、格好いいとか言うんだよ! ……とかいって私も、奈々(なな)って名前は少し恥ずかしいんだけどね」 そういって彼女はまた、向日葵のように笑った。
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