誰も見てはいない

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わたしは玄関を入ると、お気に入りのクッションチェアに倒れこんだ。しばらくの間、目をつぶる。 毎日、疲れ切って帰ってくる。 一人暮らしも5年目、手抜きの自炊レパートリーも増えたけれど、それ以上に毎日がどんどんしんどくなって、もう何もしたくない。 わたしは空気を読むのが下手だ。 ちょっとした一言や仕草で、周りの人たちの表情がすっと変わってしまう、そういう経験を幾度となくしてきた。 だから、いつも努力している。地雷を踏まないように。 大事なのは周りが自分を見る目だ。そこに気を付けていると、自分が空気を読み違えていることに早めに気づける。わたしは毎日毎分毎秒、細心の注意を払う。 そして、疲れ切る。 家に帰って、やることを全部やって寝るまでの間。好きな音楽をかけて過ごすひと時だけが安らぎだ。 でも、そんな時間はあっという間に過ぎる。 時計を見ると午前1時を回っていた。 あと数時間で、また会社に行かなくてはならない。 もう疲れた……。 ——あれ? その感覚は突然やってきた。 誰かに見られている。 ぞわっとした。 思わず周りを見回す。 一人暮らしのワンルームに、誰の視線があるわけでもない。 それでも、見られている感じは消えなかった。 わたしは音楽を止めた。部屋は真空のような静寂に満ちる。 静かだった。 あまりに静かすぎた。 隣家のテレビの音も聞こえない。窓の外、車の音も聞こえない。うるさく鳴くセミの声も。何も音がしない。 そして、わたしのことを誰かが見ている。 誰が——? わたしは、おそるおそる玄関のドアスコープを覗く。外廊下は無人だ。 それから窓の方へ行き、カーテンの隙間から外を窺う。いつも通り、前の戸建て住宅が見えるだけ。誰もいない。 いないのに、見られている感じはさらに強まっていた。 ねっとりとして、そのくせ切羽詰まった感じで、絶対逃さないという圧。 ——盗撮用カメラを部屋に付けられた? まさか。 でもわたしは、部屋を探した。 ベッド周り、小さなダイニングテーブル、チェスト、そしてコンロが2つだけのキッチン。 ない、ないよ、カメラみたいなの、無い。 じゃあこの感じは、見られている感じは何なの? 怖くなって、携帯で誰かに助けを呼ぼうと思った。 でも、いくらやっても携帯に電源が入らない。 なんで、なんで、なんで——? じゃあ、固定電話。 ——固定電話も不通になっていた。 何? 何が起きてるの? もうどうしたらいいのか分からなくなって、わたしは部屋の真ん中で呆然と立ち尽くす。 そのままのろのろと頭をめぐらせて、そして——視線の元を見つけた。 そこに目があった。 顔があった。 わたしの、とてもよく見知った顔——。 それは、わたしだった。 部屋の一番隅、姿見に使っている大きな鏡に、わたしが映っていた。 真っ青な顔色、魂が抜けたみたいな顔。 わたしは、鏡に映った自分の視線に怯えていたのか。 「なんだ」 気が抜けた。 それで、そのまま床に座り込んだ。 心臓がまだバクバク言っている。 ばかみたいだ、本当にばかみたい。 わたしは脱力し、くずおれて床に両手を投げ出した。 鏡に映る範囲から右手が外れる。 鏡に映らなくなった右手は——、消えた。 「ひっ」 息が止まった。 鏡の中だけでなく、。 慌てて両手を引き寄せる。 でも、消えた右手は戻らない。 痛みもない。 ただただ、わたしの右手が無い。 「いや!」 わたしはパニックになった。 パニックになり玄関に向けて駆け出そうとして、——止まった。 鏡を見る。 踏み出した左足、そのつま先が鏡に映る範囲から外れていた。 そして、わたしの左足のつま先もまた、消えた。 バランスが……。 かろうじて鏡に映る方に倒れこむ。必死に元の場所に這って戻った。 でも、つま先は消えたまま。 「ああ——」 震えていた。 震えながらじっと右手を、そしてもう一度、つま先を見た。 戻らない。戻らないどころか——。 消失が拡がっている。 わたしは、右手とつま先から消え始めている! 「助けて!」 反射的にわたしは叫んだ。 「誰か助けて」 力の限り叫んだつもりだった。 「誰か、誰か、誰か!」 でもそれはかすれていて、とても小さな声だった。そばには誰もいなくて、誰もわたしのことを見ていなくて、わたし一人きりで。声は決して表まで届くことはないだろう。 誰も助けに来ない。 わたしはここから動けない。一人、消えていく。 「助けてよう。誰かお願い——、嫌だよ、ここで一人で消えちゃうのは嫌だ」 やっと涙が出た。 出たら止まらなくなった。 自分が消えてしまうことだけでなく、いつかこんな事になるような気がしていたというそのことが、ひどく悲しかった。
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