その指に絡めるのは愛の約束

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その指に絡めるのは愛の約束

オーブンで焼ける鶏の食欲を誘う匂い。 姉は、いつも凪いだ海のような静かな僕の空間を泡立てる。 「雅春!いつまで寝てるのよ!今日がどういう日か知ってるでしょう?ちゃんと顔を洗って服着て挨拶してくれなきゃ、わたしが恥ずかしいんだから!」 何十年もの間、誰かの足裏で磨かれたのであろう階段が鴬張りの床のようにきしりと鳴く。長い髪をシニヨンにまとめた波姉。見る度にきれいになっていく自慢の姉。 「誰がくるんだよ」 「雅春も知ってるかも?漆塗りの彼よ。教育実習はあんたの学校だったといっていたし」 光村漸。 今の僕が彼を知らないはずはない。 彼は、大学まで高望みしなければそのまま進級できる僕たちの、うつらうつらと同じような毎日を繰り返す、退屈な高校生活に投げ入れられた玩具。 彼は、静かな空気をまとっていた。 熱血の塊で空回りしている他の実習生たちとは一線を画す。たちまちクラスの女子たちは色めきたつ。美術専攻の彼は授業に加えて僕の美術クラブ担任も引き受けた。 僕のお気に入りの静かな午後の時間は壊された。 にわか画家志望の女子たちが美術教室にあふれることになったのだ。 光村漸を囲んで盛り上がる女子たちと比例して持てない男子生徒たちは敵意をむき出しにする。 その中にはカズヤやトシやヒロシや僕の気に入った女の子も混ざっていたけれど、それよりもむしろ僕たちは何か、もっと後ろ暗いような、刺激的な出来事の予感を感じ取っていた。 たとえば、群がる女子の一人や複数と好ましくない関係になって、教育委員会やPTAを巻き込んで世間を騒がせるとか。 僕たちの期待を尻目に、光村漸はぼろを出さなかった。 「あいつはあっちの方なんじゃないかよ?」 そう言ったのはカズヤ。「俺たちで暴いてやろうぜ?」 新たな方向性を得て、キャンバスに鉛筆を走らせつつ、僕は彼を盗み見る。 すぐに眼が惹かれるのは言葉よりも雄弁に語る繊細な手だった。 形あるものを生み出す造形家の手だと思った。 壊れた器を金で修復する金継ぎが専攻という。 聞き耳を立てながら自然と僕の絵は今にも語り出すような動きのある光村漸の手になる。 「君は一番上手だね。今まで賞とかとったことある?名前はなんていったかなあ」 集中していた僕は仰天した。 僕の観察対象は後ろから僕のデッサンをのぞき込む形になっていた。 視界いっぱいに彼の手がいびつに開かれていた。僕の絵と同じ形をとろうとする。 一瞬をとらえた手の形は意識して作ろうとすれば案外難しい。 「藤くん?なるほど上手だね。でもそれだけだね。質感も重さも感じられないのが残念だね。 何をしている手なの?求めているの?悲しんでいるの?何を語っているの? きれいに写すだけで満足していてもいいのかな?」 面と向かって指摘されるとその通りと思えても体はこわばった。 光村漸は、言い過ぎたことに気がついた。 口の中で謝りながら体を引こうとする。 撤退する手を僕は捕えた。 彼の手は意外なほどざらりとしていた。 「この手はあんたの手。知らないものは描けないんだ。僕の絵を本物にしたければどうすればいいか教えてほしいんだけど?」 視界の隅でカズヤがヤツを落とせといっていた。 僕もそのつもりだった。イロジカケというものだ。 成功するかもわからないけれども。 彼の手に触れる。 そしてその手を僕の体に、それも直接肌に触れさせる。 それを隠れ覗くカズヤたちに証拠写真をとらせて校長に突きつける。 人気の美術教師の卵は未来永劫ジ・エンド。 玩具は壊れるまでもて遊んで、終わりなのだ。 それは大人と子供の狭間の、最後の悪戯。 彼の手はほどくわずかの間、僕の目を見て揺れた。 葛藤したのだ。「知りたいのなら最後まで残って」 小さな声は、秘密を共有しようと僕を誘う。 勝利の喜びと共にわき上がる、別種の好奇心。 悪友たちとの勝利を、自分だけのものにしたくなったのはほんの出来心。 二人きりになると、美術教室の鍵を彼は閉める。 糾弾されていいわけできないことはしてはならない。 それは彼もわかっている。 何事もなくても彼は危険を冒していた。 僕にはそれだけの価値がある。 「確認してみて」 僕は差し出された手に触れた。ところどころ炎症を起こして荒れた手指のざらつく感触を味わう。 手のひらを頬に押しつけてみた。 びくりとはねた手のひらはすぐにふりほどかれるかと思ったけど、僕のなすがままにされている。 優しい温かさが頬にその奥に流れ込む。 眼を閉じて鼻を寄せて干し草のような彼の匂いを味わった。 彼は自分のことを話しだす。 金継ぎを大学で専攻していること。 金継ぎは漆を使うこと。 たまに油断した時にかぶれること。 ふたりだけの教室で与えられる教師と生徒の関係以上の彼自身の情報。 親指が唇をなぞる。
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