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ちよは、洗い物の手を止め腰を伸ばした。  ちよが、この一膳めし屋で働き始めて三年になる。ちよは、裏店で育ち、十五歳になるとこの一膳めし屋に働きに出たのだった。  くるくるとよく働くちよは、店の女将さんをはじめ、店の常連客からも「おちよちゃん、おちよちゃん」とかわいがられていた。 「よう、おちよ。水一杯くんねえか」  店の裏口から顔を覗かせたのは、通り一本向こうにある桶屋、桶芳の職人卯吉うきちだった。  職人、とはいえまだ見習いの年季奉公の身だったが、じきに年季も明けお礼奉公の後は同じく桶職人の父親の跡を継ぐことになっていた。 「もう、卯吉さんったら。またそんなところから入ってきて。ちゃんと表おもてからいらっしゃいよ」  ちよは、水瓶から湯呑に水を汲むと、卯吉に湯呑を渡して言った。 「水もらったら、表にまわってめしをいただくよ。今日は何があるんだ?」 「魚はアジ、ほっけ、サバ。あ、アジはもう終わったんだっけ」 「じゃあ、サバに煮しめをつけてくんな」 「注文は表まわってお店に入ってしてちょうだい。ここで出すわけじゃあるまいし」 「ちぇ。表行ったって、おちよはいねえじゃねえか」  そう言って、卯吉は飲み干した湯呑をちよへ差し出した。ちよは、肩をすくめて湯呑を受け取った。  このひとの、こういう物言いはどこまで本気にしてよいやら。とちよは思う。  ちよと卯吉は、同じ裏店で育った所謂幼馴染だった。卯吉の父は、腕のいい桶職人だったが親方になる気はなく、あちこちの桶屋から依頼され仕事をしていた。卯吉の家の三軒隣がちよの家で、ちよの父親は錺職人だった。三つ年上の卯吉とは、幼い頃から一緒に遊んだ仲だった。  ただ、それも卯吉が奉公に上がるまでの話で、奉公に上がってからは、藪入りで卯吉が家に戻った時でさえ、めったに会うことはなかった。奉公に上がる前日も、卯吉はちよの家に挨拶しに行ったが、ちよの父母に挨拶はしたものの、ちよはたまたま外出していて卯吉には会えずじまいだったのだ。  ちよと卯吉が再会したのは、ちよが働き始めてしばらくして、ちよの働く一膳めし屋に親方に連れられた卯吉がやってきたからだった。注文を取りに来たちよを見て、卯吉は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに笑顔になり「なんだ、ちよちゃん。見違えたな。ここで働いてたのか」と言った。  見習い奉公の身分では、そうちょくちょくめし屋でご飯を食べるわけにはいかなかったが、月に二、三度ぐらいの頻度で、卯吉はちよのいるめし屋に通うようになった。そのうち、幼い頃の延長で、ちよのことを「ちよちゃん」と呼んでいた卯吉が、「おちよ」と呼ぶようになったことにちよは気づいていた。だが、その意味を深く考えることはやめておいた。どうせ、たいした意味はないのだろう。そこに、特別な意味を探そうとすると、期待と不安で、どうにかなりそうだった。  幼い頃から、ちよにとって卯吉は特別だった。同じ裏店の子供たちのなかで、ちよが一番懐いていたのは、卯吉だった。卯吉は、どこへ遊びに行くにもちよを連れていってくれたし、いつもちよを気にかけてくれていた。卯吉への気持ちは、頼もしいお兄ちゃんから、いつしか一人の男性へのそれに変わっていった。でも、きっと卯吉のなかでは、ちよはいつまでも幼馴染みの妹のような存在なのだろう。ちよは、そう思っていたが、それでもやはり卯吉のことは諦めきれずにいた。 「じゃあ、めし食ってくらあ」  卯吉はそう言うと、じゃあな、と言って店の表へまわっていった。ちよは、ふうとため息をついて、途中だった洗い物に取り掛かった。頭から卯吉の影を追い出すには、一心不乱に働くのが一番だ。ちよは、もくもくと洗い物を片付けていった。  昼過ぎになり、店の客足もいったん途絶え洗い物も片付いた頃、女将さんが顔を出した。 「なんだい、おちよちゃん。まだ居たのかい。もう上がっていいよ。そうだ、晩飯に余った煮しめ持ってきな」  女将さんはそう言って、煮しめの入ったどんぶりをちよに持たせた。 「女将さん、いつもすみません」  ちよは、どんぶりを受け取って頭を下げた。女将さんは、カラカラと笑って「いいって、いいって。おちよちゃんは、いつもよく働いてくれるからね。あんまりお給金出せなくて悪いからさ」と言った。 「そんな、女将さん、あたしはこうして働かせていただけるだけで十分です」 「やだよ、この子は。そんな水臭いこと言いっこなしだよ。ほら、弟さんが待ってるだろ」 「はい、それじゃお先にあがらせてもらいますね」 「気を付けて帰るんだよ」  ちよは、もう一度女将さんに頭を下げ、持たされたどんぶりを抱えて店を後にし、日が傾きかけた町中を家路へと急いだ。女将さんの言うとおり、家では病床の弟が待っているのだった。  ちよが、一膳めし屋で働くようになったのも、夜の仕事を免除してもらって通いで昼のみ働いているのも、すべては弟のためだった。 「ちよちゃん」  ちよが、もうすぐ家に着くというところまで来たとき、後ろから声をかけられ振り向くと、そこにいたのは表店の小間物屋うさぎ屋の若旦那、清太郎だった。清太郎の小間物屋は、ちよの父親の佐平が品物を納めている店のひとつだった。幼い頃、ちよは品物を納めに行く父に着いていき、清太郎とも遊んだものだった。ちよの裏店と清太郎の小間物屋のある表店は近いため、ちよが一膳めし屋で働き、清太郎が小間物屋の若旦那となった今でも、こうしてばったり会うことはそう珍しいことではなかった。 「ちょうど今、ちよちゃんの家に行ってきたところでね。佐平さんの新作の簪が人気で、お礼と追加のお願いをしに」 「いつもお引き立ていただいて、ありがとうございます」 「いやいや、お礼を言うのはこちらのほうだよ」  若旦那になっても、昔と変わりなく接してくれる清太郎を、ちよは有難いと思った。ちよにとっては、清太郎もまた、大事な幼馴染に違いなかった。 「これからも父をご贔屓にお願いします」  ちよは、そう言って頭を軽く下げ、「では、これで」と立ち去ろうとした。 「あ、ちょっと待って、ちよちゃん」  清太郎が呼び止め、ちよは出しかけた足を止めた。 「あ……、いや、うん、何でもない」  清太郎は、何かを言いかけたが、思い直したようにそう言うと、じゃあまた、と歩き出した。 「……変な清太郎さん。どうしたのかしら」  ちよは、清太郎の後姿をぼうっと眺めていたが、家路を急いでいたことを思い出し、またせかせかと歩き出した。  ちよが、卯吉にめし屋の近くの境内へ呼び出されたのは、それから数日後のことだった。 「なあに、卯吉さん。こんなところへ呼び出すなんて」  ちよは、何でもないふうに言ったが、内心は心臓がばくばくして、飛び出してしまいそうだった。 「あ……、あのよ、おちよ。その……、これをおめぇにって思ってよ」  卯吉はそう言って、懐から小さな包みを取り出した。中を開けると、小さな花が幾重にも重なった、見事な細工の簪があった。 「まぁ、なんて素敵な簪……これを私に?」  ちよは、思わず簪を手に取りしげしげと眺めた。その時、ちよは簪にある小さな刻印に気付いた。 「あら、これ、お父つぁんのだわ」  簪にあったのは、簪の製作者でちよの父親である佐平の刻印であった。 「親父さんの簪だったのか。こいつぁ、何かすまねぇことしたな。結局、作ったところへ戻すみてぇでよ」  卯吉は焦ってそう言ったが、ちよは首を横に振り、にこりと笑った。 「お父つぁんの作った簪を貰えるなんて、嬉しいわ。こう見えて、なかなか娘には作ってくれなくて、お父つぁんの作った錺物ってあんまり持ってないの」  それに、卯吉さんが私のために選んで買ってくれたものだもの。ちよは、心のなかでそう付け加えた。 「そ、そうか。それなら良かった。なに、親方のお使いで浅草へ行った帰りに、たまたま小間物屋の店先でおちよに似合いそうだと思ったからよ」 「まぁ、浅草?」 「ああ、浅草の何て店だかは忘れちまったがよ」  そんな遠くまで品物を卸しているなんて、お父つぁんもなかなかやるわね。ちよは、父親が黙々と錺物を作る姿しか見たことがなかったため、意外とやり手だったことに驚いたが、弟のため、家族のために父親が頑張っているのを、垣間見たようで嬉しくなった。  そして、お使いの途中で卯吉が自分のことを思い出してくれたことに、とても感激していた。この簪を見て、あたしのことを思い出してくれたなんて。この簪は、あたしの宝物だわ。 「ありがとう、卯吉さん。大事にするわ」  ちよは、簪を大事そうに、そっと握りしめた。 「ちよ、おめぇその簪はどうしたんだ」  翌日、身支度をして店に行こうとしていたちよが挿していたのは、卯吉に貰った簪だった。佐平は、ちよの挿していた簪を目敏く見つけて言った。 「これ、お父つぁんの作った簪でしょう?」 「ああ。おめぇ、自分で買ったのか」 「ううん、卯吉さんが私にって」 「卯吉?……あぁ、桶職人の喜助んとこの倅か。なんだ、おめぇ、喜助の倅とそういう仲なのか」  ちよは、父親の言葉の意味がわかると、顔を赤くして首を横に振った。 「違うわ、お父つぁん。そういうんじゃないのよ。卯吉さんの奉公先がめし屋の近くでね、お店の常連さんなのよ」 「店の常連ってだけで簪なんかよこさねぇだろ。そいつはちょっといい値段がするはずだ」 「え、そうなの?」  ちよはそんなに値の張るものを、卯吉がくれたのかとぎょっとした。 「疑うんなら、うさぎ屋の店先覗いてみな。この間追加で卸したから、まだ並んでるはずだ」 「そういや、清太郎さんがそんなこと言ってたわ。新作の簪が人気で追加で依頼したって」 「そう、それよ。若旦那ときたら、物腰は柔らかいくせに押しが強くて、参っちまう」  あら、でも、そういや、卯吉さんが買ったのは、うさぎ屋じゃないはず。ちよは、昨日の卯吉の言葉を思い返していた。 「でもお父つぁん、卯吉さん、この簪浅草で買ったって言ってたわ」 「浅草ぁ?」  佐平は、ひどく驚いた様子でちよを見た。 「おれぁ、浅草なんぞに卸しちゃいねぇよ。浅草なんか、行って帰ってくるだけで日が暮れちまわぁ。第一、その簪はうさぎ屋にしか卸してねぇしな。若旦那と、そういう取り決めなんだ」  佐平はそう言うと、腕組みをして考え込んだ。 「喜助の倅が、本当に浅草で買ったってんなら、若旦那の耳に入れといたほうがいいかもしれねぇな」  佐平は、ひどく難しい顔をして言ったが、思い出したように「そういや、おめぇもう行かねぇと遅れちまうんじゃねぇのか」と言い、ちよも慌てて勤めに出かけていった。  清太郎がちよの働く一膳めし屋に顔を見せたのは、お昼の客も少なくなりそろそろちよがあがろうとしていた頃だった。 「ちよちゃん、もう勤めは終わりかな」 「えっ!清太郎さん!?」  ちよはいささか驚いたものの、出掛けに父と話していた件で会いにきたのかもしれない、と見当をつけた。ちよの見当通り、清太郎は簪の件でちよに話を聞きに来たのだった。 「ごめんなさい、後片付けがもう少しかかりそうで…」 「おちよちゃん、後片付けはあたしがやっとくから。あんたはもう今日はあがってもいいよ」  女将さんが、奥から前掛けで手を拭きながら出てきて、ちよの横に来ると、小声で「おちよちゃんのいいひとじゃないのかい?いい男じゃないか」と耳打ちした。 「お、女将さん!」  ちよは、顔を赤くして慌てて女将さんを奥へ引っ張って行った。 「女将さん、違うんです。あのひとは、父が品物を納めている小間物屋の若旦那です」 「おや、そうかい。あたしはてっきりそうかと…。それにしても、いい男じゃないか。うちの常連はむさ苦しい男どもばっかりだからねぇ」  確かに、清太郎は男振りが良く、人目を惹く容貌だった。その上、小間物屋という職業柄、流行にも敏感で洒落ていた。 「もうっ!女将さん、本当にそんなんじゃないんですっ」 「ほらほら、おちよちゃん。いいひとを待たせちゃいけないよ」  女将さんは、ちよの背中を押して、はやくはやく、と急かした。  ちよが慌てて表に出ると、店の前で清太郎が待っていた。 「ごめんね、ちよちゃん。勤め先にまで押し掛けてしまって」 「いいんですよ、清太郎さん」  清太郎は、立ち話もなんだからと腰掛茶屋にちよを連れていった。茶屋の店先に置かれた緋毛氈が敷かれた腰掛に腰を下ろしたところで、茶屋娘が注文をとりにきた。清太郎とちよは、それぞれ茶を注文した。 「早速だけどね、ちよちゃん」  茶屋娘が茶を置いて奥へ引っ込むと、清太郎は茶をひとくち口に含んでから切り出した。 「佐平さんから、ちよちゃんがうさぎ屋でしか売っていないはずの簪を、浅草で買ったというひとから貰ったって聞いて」 「ええ、この簪ですよね」  ちよは、髪に差した簪に触れた。清太郎は、ちょっと失礼、と断って、ちよにずい、と近づくと簪を確かめた。 「確かに、これはうちの店でしか売っていないはずの、佐平さんに依頼した簪だ。」 「あたしにこの簪をくれた人は、確かに浅草の小間物屋で買った、と言ってました。お店の名前までは忘れちゃったみたいだけど」 「そう……。お店の名前がわかると一番良かったんだけど」 「あまりお役に立てなくて」  ちよがそう言うと、清太郎は慌てて、いやいやと手を振った。 「ちよちゃんが買ったならともかく、貰ったものをどこで買ったかなんて、わかりっこないさ、普通。気にしないでおくれ」 「清太郎さん……」  ちよは、わざわざ清太郎がちよのところまで話を聞きに来たのに、何の役にも立てず申し訳なく思った。とはいえ、清太郎の言うとおり、貰った品物がどこで買ったものかなど、貰った立場ではわかりようもないのは事実だった。  清太郎は、またひとくち茶をすすり、手のひらで茶碗を弄びながら、通りを歩く人たちを眺めていた。  やがて、清太郎は大きくため息をつくと、ちよに向き直った。 「佐平さんが、うちとの取り決めを破っていないのなら、犯人はうちの店のものかもしれないな」 「そんな……」  ちよは、愕然として呟いた。しかし、ことがうさぎ屋の中のことであれば、ちよにできることは何もない。せめて、父には火の粉が振りかからないように、と祈るしかなかった。 「時間を取らせて悪かったね。もう家に帰るかい?家まで送ろう」  清太郎は、茶を飲み干し席を立った。  ちよが、何か違和感を感じたのは、一月後のことだった。  簪をくれたあの日から、卯吉に会っていなかった。これまで、卯吉は月に何度かはめし屋に来ていたし、店に来たときは決まって裏口から顔を出し、二言三言ちよと言葉をかわしていた。それが、一月来ていないのだ。  ちよが心配したのは、卯吉が怪我や病気をしてやしないか、ということだった。もしや、と思うと、ちよはいてもたってもいられなくなった。まずは、卯吉さんの無事を確かめなくては。ちよは、そう思い、どうやって卯吉の無事を確かめるか思案した。親方さんに聞くのが、一番早いのだろうけど……。ちよは卯吉の親方と、何度か言葉をかわしたことはあるが、だからといっていきなり卯吉について尋ねる勇気はなかった。  親方に聞けないとなると、卯吉の職場へ行ってみようか、とも考えた。しかし、卯吉は見習いの身であるから、ちよが前触れもなく訪ねていいものか……。  結局、心配しながらも、ちよは何もできないまま、毎日を過ごしていたある日、桶芳の職人が何人か連れだって昼飯を食べにきた。卯吉はそのなかにはいなかった。ちよは、たまたま近くで客の食べた食器を片付けていた。 「そりゃ、ほんとの話か?」  桶芳の職人の一人がそう言った。 「ああ。この間、卯吉が親方に呼ばれて奥に行っただろ。そんときさ」 卯吉の名前が聞こえて、ちよは思わず耳をそばたてた。どうやら、卯吉の噂話をしているらしい。 「なんだって、奥の話をお前が知ってんだよ、怪しいな」 「まぁ、そこはいいじゃねえか」 「卯吉は腕が立つからな。お嬢と卯吉を一緒にさせて跡継がせようって訳か」 「おい、それで卯吉は親方に何て言ってたんだよ」 「そこは聞こえなかったけどよ。卯吉にだっていい話だろうよ。当然、受けたんじゃねぇのか」  ……彼らは一体何の話をしているの?卯吉さんが?桶芳のお嬢さんと一緒になるって言った?  ちよは、信じられない思いで、桶芳の職人たちの話を聞いていた。ちよは、その場から逃げ出したかったが、ちよの意思に反して逃げようにも足が動かず、その場に立ち尽くしていた。 「おちよちゃん!あんたどうしたんだい!酷い顔色だよ、具合でも悪いのかい?」  ちよに気付いた女将さんは、ちよの真っ青になった顔を見て、びっくりしてちよのもとへ駆け寄った。 「女将さん……」  女将さんは、ちよの額に手を当ててみた。 「熱はないようだけどね。おちよちゃん、あんた、今日はもういいから、帰ってゆっくり休みな。明日も休んでかまわないから。辛いなら、店の二階行って休んでから帰ってもかまわないよ」 「すみません、女将さん……」 「いいから、ちゃんと休むんだよ!」  女将さんは、そう言うとテキパキとちよの帰り支度を整えた。  女将さんに帰されたちよは、とぼとぼと歩いて、気がつくと卯吉に簪を貰った、あの境内に来ていた。ちよは、お社に続く階段に腰を下ろした。  卯吉に簪を貰ったのが、ついほんの最近のことのようにも、はたまた遠い昔のようにも思えた。卯吉がくれた簪は、今日もちよの髪に差されていた。ちよの目から、涙が零れ落ちた。そうなると、関を切ったように、涙が溢れて止まらなかった。  ……ここでなら、少しは泣いたっていいかしら。  ちよは、膝を抱え顔を隠してさめざめと泣いた。  どのぐらい経っただろうか。日が陰り始めた頃、ちよは人の気配を感じ、顔をあげた。視線の先にいたのは、卯吉だった。 「おちよ、なんだってこんなところに……」  卯吉は、ちよがいることに狼狽えていた。卯吉は、ちよに近づいてくると、涙の跡に気付いた。 「なあ、おちよ。泣いてたのか?あいつが泣かしたのか?」  あいつ?あいつって誰よ。あたしを泣かしたのは卯吉さんよ。  ちよは、卯吉にそう言ってやりたかった。しかし、それは口には出せなかった。  卯吉は、ちよの隣に並んで座った。 「あのよ、おちよ。おめぇ小間物屋の若旦那と好きあってるんだろ?」 「小間物屋の若旦那って……」 「この間よ、おれ、見ちまったんだよ。おちよと若旦那風の男が腰掛茶屋で肩寄せあって話してるとこ。見てたら、おちよの家のほうに並んで歩いてくじゃねぇか。あいつぁ誰だ、と思ってたら、おめぇんとこのめし屋の女将が、親父さんが品物納めてる小間物屋の若旦那とおちよがいい仲だってんで、おれは……」  女将さんたら!違うって言ったのに、信じてなかったんだわ!あまつさえ、そんなことを言ってまわるなんて!  ちよは、女将さんに悪気がないのは分かっていたが、こればかりは女将さんに腹をたてた。それにしても、簪の件で清太郎と腰掛茶屋で話していたところを、まさか卯吉に見られていたとは。清太郎がちよの簪を確かめるのに近づいたところを、肩を寄せあっていたと思うとは。 「卯吉さん、違うの。あのひと、清太郎さんはほんとにお父つぁんが品物を納めてる小間物屋の若旦那で、ほんとにそれだけなの」  ちよは、慌てて否定したが、卯吉はちよの言葉を信じられないでいた。 「隠さなくたっていいんだぜ、おちよ」 「何も隠してないわ。清太郎さんとは、幼い頃から知ってるから、話もするけど、ほんとにそれだけよ。信じて、卯吉さん」 「じゃあ、おちよは何で泣いてたんだ。あいつに泣かされたんじゃねぇのか?」 「違うわ」 「ほんとか。あいつに泣かされたんなら、おれはあいつを容赦しねぇ」 「誓って違うわ。清太郎さんとは関係ないわ」 「なんだ、おれはてっきり……だから……」  卯吉はぶつぶつと呟いたが、ちよにははっきり聞こえなかった。卯吉は、今度は心配そうにちよの顔を覗きこんだ。 「あいつは関係ないとしたら、おちよは何で泣いてたんだ?何かあったのか?」  ちよは黙りこんでしまった。卯吉が自分ではない誰かと祝言をあげることが悲しくて泣いていた、なんて本人に向かって言えるはずもなかった。 「どうした?おれには話しにくいことか?」  卯吉はなおも心配そうに聞いてくる。卯吉さんには関係ないことよ、と突き放せば、卯吉は離れていくだろう。でも、ちよにはそれはできなかった。  ちよは、心を決めた。卯吉に話して、すっぱり諦める。まだ、他の人との幸せを願うことはできないけれど。 「さっき、お店に桶芳の人たちが来てたの」 「うちの連中が?」 「卯吉さんと桶芳のお嬢さんが一緒になって、ゆくゆくは卯吉さんが桶芳を継ぐって話してたの」 「はぁ!?」 「それで、卯吉さんが、あたしじゃない、他の人と夫婦になるのかと思うと……」  ちよは、頑張って話していたが、話ながらまた涙が出そうになり、目をしばたたいた。 「ちょっと待て、おちよ!誤解だ!それこそ誤解だ!」  卯吉は、両手でちよの肩を掴んで、叫ばんばかりに否定した。 「確かに、親方からその話は打診された。だが、おれは断ったんだ。おちよを諦めきれなくて、お嬢と夫婦になる気にはどうしてもなれなかったんだ!」  ちよは、目を見開いて卯吉を見ていた。卯吉は尚も言い募った。 「なぁ、おちよ。おめぇ、その小間物屋の若旦那とは何でもねぇんだろ?だったら、頼むから、おれと夫婦になってくんねぇか。おれは、ずっと夫婦になるならおちよしかいないと思っていたんだ。じきに年季も明けるし、お礼奉公はあるけど、通いにしてもらってもいい。おちよに苦労はさせない。おれは、おちよと所帯を持ちたいんだ。なぁ、頼むよ」 「……ほんとに、あたしでいいの……」 「おちよ『で』いいじゃない。おちよ『が』いいんだ。おちよしかいないんだ。おれの女房になってくれ、頼む」 「卯吉さん……」  ちよの目から、また涙がこぼれた。だが、それはさっきとは違い嬉し涙だった。 「うれしい。あたしも、ずっと卯吉さんのこと好いていたの。でも、卯吉さんはあたしのこと妹ぐらいにしか思ってないと思ってたの」 「妹なもんか」  卯吉はそう言うと、そっとちよに口付けした。卯吉は唇を離すと、ちよの耳元で囁いた。 「妹にこんなことしたいなんて思わねえだろ」  ちよは、みるみる顔を赤く染め、そんなちよを見ていた卯吉はもう辛抱できないというふうに、ちよをかき抱いた。 「あぁ、おれぁ、おちよを諦めなくてほんとに良かった。おちよに会うのを我慢してたこの一月、どんなに辛かったか」 「え……会うのを我慢してたって……じゃあお店に来なかったのはそのせい……?」 「だって、もうおちよは、おれじゃねぇ、他の男のもんになっちまったと思ってたしよ。おちよに会っちまうと、諦められねぇじゃねぇか。いや、結局諦められなかったんだけどよ」  そう言うと、卯吉はぽりぽりと頭をかいた。 「まぁ、いいさ。おれは、おちよと一緒になれるならなんだっていいんだ」  結局、卯吉とちよが祝言をあげたのは、それから二年後の、卯吉がお礼奉公を終えたあとだった。卯吉は、かまわねぇから早く所帯を持ちたいと言い張ったが、ちよが宥めて、せめてお礼奉公をきちんと終えてから、となり、卯吉はしぶしぶちよに従った。  卯吉は、父親の跡を継ぐつもりだったが、桶芳の親方にどうしても、と頼み込まれ、そのまま桶芳のお抱え職人となった。ちよも、変わらず一膳めし屋で働いていた。  朝、ちよと卯吉は並んで仕事へ向かい、帰りは卯吉がちよを迎えに行き、一緒に帰る。夫婦になってから、それが二人の習慣となった。  もうすぐ春を迎える。あたたかくなってきた風を感じ、卯吉は並んで歩いてくちよに言った。 「なぁ、おちよ。桜が咲いたらよ、二人で川べりに花見にでもいかねぇか」 「いいわねぇ。あたし、お弁当作るわ」  ちよは卯吉の言葉に、微笑んで応える。卯吉は、そんなちよを嬉しそうに見ている。 「そいつは楽しみだ」  卯吉はとちよは笑いあった。 「なんか、腹ぁ減ってきたな。急いで帰るか」  卯吉は言い、二人は夕飯の相談をしながら家路についたのだった。
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