第一章 皇帝陛下

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晴明の言葉に、想像していたような独裁者独特の押しつけがましさはない。どちらかというと、紅華同様戸惑っている様子が感じられた。  そう気がつくと、今まではるか彼方の存在でしかなかった『皇帝陛下』というものが、急に身近に感じられる。  いきなり父皇帝が亡くなって自分が皇帝の座につき、しかも初めてとなる妃が目の前にいる。理由は知らないが、二十四歳にもなって寵姫の一人もいないということは、なにかしら本人に思うところがあるのだろう。一度にその身に訪れた出来事に、むしろこれほどに冷静でいられる晴明はかなりの度量の持ち主なのかもしれない。  どちらにしろ、言葉こそ頼みの形をとっているが、もとより紅華に断るという選択肢は用意されていない。けれど、そんな自分を気遣ってくれる晴明の態度に、紅華は好感を持った。 「ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」  結局破談にはならないのかと微かな落胆は感じたが、それは顔に出さずに紅華はただ深く頭を下げた。 「睡蓮」  宰相が誰かを呼んで、紅華は再び顔をあげた。はい、と澄んだ声がして、一人の女性が入ってきた。 「これなるは、沙睡蓮。後宮の女官長である。以後、紅華殿に付き従うので、なんなりとお申し付けあれ」 「はい」  睡蓮は、うつむいたまましずしずと部屋に入ってくる。 (あら?)  晴明の横を通る時も睡蓮は彼に向けて顔をあげることはしなかった。晴明の方も、視線すら彼女に向けない。 (身分の低い方なのかしら)  身分の低い者は、直接高位の者とやり取りすることができない。彼女がただの下女ならわかるが、女官長という立場ならそれなりの家の出のはずだ。その態度になんとなく違和感を持つ紅華の前で、睡蓮は膝をついて挨拶をした。 「蔡貴妃様のお世話をさせていただきます、沙睡蓮です。これからよろしくお願いいたします」 「こちらこそ、お願いいたしますね」 「どうぞ、こちらへ。お部屋にご案内いたします」  立ち上がった睡蓮に促されて、紅華も立ち上がる。晴明が、穏やかに笑んだ。 「では、紅華殿。また」 「はい。御前、失礼いたします」  紅華は、睡蓮に連れられて広間を後にした。   ☆ 「後宮の用意が整うまで、こちらの部屋でお過ごしください」   紅華に用意されたのは、貴賓用の客室らしかった。見事な調度品の揃えられた豪華な部屋に、紅華は感嘆の息を漏らす。 「素敵なお部屋ね」 「お気にいらないところがあればすぐに変更いたしますので、お申し付けください」 「いいえ、とんでもない! こんなに素敵な部屋、ずっとここでもいいくらいだわ」  あちこちに視線を移す紅華を、睡蓮は微笑ましく見ている。 「後宮にある蔡貴妃様のお部屋は、もっと素敵に整えられておりますよ。明後日には後宮も落ち着きますので、そちらに移っていただくことができます」 「明後日……今頃後宮は、大騒ぎでしょうね」 「そうですね。陛下はまだお若かったですし……いきなりのことに、宮城でも戸惑っております」  しっとりとした口調で言いながら、睡蓮はお茶の用意を始めた。
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