お堀からラブソング

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 寝かしつけに被らないように、明日に回してもいい仕事を前倒しした帰り道、拾った鱗のことを思い出した。それは、れいなに見せるタイミングを失って、まだビジネスバッグの底にあった。くるんでいたハンカチはほどけてバッグの隅でくしゃくしゃになっていた。夜空にかざすと、鱗の年輪が月の光を細かく刻んで小さなきらめきに変え、平板なところは不透明な光を放っていた。お堀を半周して、ひとつ先の駅から地下鉄に乗ろうと決めた。どうせ早い帰宅は求められていない。堀の水は川や海と違って生臭いのかもしれないけれど、なんとなく水辺に行きたかった。  水を抜いて外来生物を駆逐したとか、珍しい鳥が飛来したとかでたびたび話題になる城のお堀だけれど、夜は人影もなく静かだった。たまに、上下ビビッドでスタイリッシュなウェアを身にまとったランナーが、ある人は風を切る速さで、別の人はコマ送りのように、歩いている僕を追い抜いていく。  お堀には柵が巡らされていて、すぐ脇は遊歩道になっている。その外側には車道がぴたりと寄り添い、車道を挟んだ向こう側には昔ながらの住宅街や低いビルが並んでいる。最上階にだけ明かりのついているビルが目に入った。その部署で残業している人は、もう夜食を食べたのだろうか、それともお腹を空かせているのだろうか。中にいるのは独身女性かもしれないのに、自分と似た、三十代の男が机にかじりついているのを想像してしまう。そちらはどうですか、家族とうまくやれていますか。やっぱりうまくいきませんか? もしうまくやれてるなら、コツを教えてもらえませんか。でも、そのコツが、うちの家の不協和音を解きほぐすタクトにはならないですよね。  どうも今日は疲れている。そこだけ煌々と明るい自販機に吸い寄せられるように、ビタミンC入りの炭酸飲料を買って飲んだ。喉を弾く泡と酸味が、つかの間、空っぽの胸を満たし、すぐに流れ落ちていった。
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