怖がりなひと

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「――美由! 待って!」  エレベーターの扉が開くと同時に、よく聞きなれた声が響き渡った。ワンテンポ遅れて、腕を後ろに引き寄せられる。誰の声かなんて、誰が引っ張ったかなんて確認するまでもない。そのまますっぽりと体を抱きしめられて息をのんだ。 「ひっ……!」  今まで閉じ込めていた思い出が一気に脳内に噴出し、小さく悲鳴をあげた。望んでいた〝奇跡〟だというのに、体と心が拒否反応を起こす。思い出すべきではない過去の記憶が私の感情を爆発させ、全身をわななかせた。  幸せだったのだ。交際していたあの一年間、私は確かに幸せだったのだ。  彼は私の初恋で、私の初めてをなにもかも彼にあげた。無邪気なキスも、二人きりのベッドで身を温める夜も、燃えるような喜びも、ぼろぼろの悲しみも、すべてが初めての体験だった。  でも、その幸せに心が追いつかなかったのだ。幸福さの裏で、蓄積された孤独と劣等感が時折顔を出すたびに、私の初恋は切り刻まれ、とりかえしのつかないところまで沈んでいた。私はどうしてこうなってしまったんだろう。なにが悪かったんだろう。    いっそのこと、彼がどうしようもないほどクズな人間だったら良かった。暴力をふるって、我が物顔で他人を独占する人間だったら、どれほど救われただろう。  なのに、今目の前にいるひとは〝悪〟の部分をへその緒と一緒に切り落としてしまったかのように善良で穏やかで――。
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