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「十一月にISO認証の維持審査があるんで、去年一年間のクレームをまとめて、先週、全員で会議をしたところ。要経過観察五件、要是正一件」 「要是正のクレームを出したのは月村」りんちゃんが言った。 「はい、おっしゃる通りです。なんと二十万円の損失を出しました」 「なにがあったんですか」 「漢字を一文字ね」 「誤字ですか?」 「まあ、ある種の誤字」 「あれが誤字ならキョーテンドーチ」 「わたしも、校正したのよ」美遥が言った。「あれは誰も誤字とは思わない」 「だけど、月村が悪い。あんなペラペラの付箋貼るから」 「どんな誤字ですか?」 「『あたたかい手』ってどの漢字をあてる?」 「温度の『温』…ですよね」 「暖房の『暖』は?」 「そう言われると…でも『冷たい手』とは言うけど、『寒い手』とは言わないから、『暖』はあてない…でしょ?」 「黒木さん、頭いい」 「にもかかわらず、ぼくは始末書を書かされた。財津さんが怒鳴るから、寿命は三十五秒縮まった」  介護施設の職員に配るため介護理念を小さな冊子にまとめたのだ。渡されたテキストを流して、デザインする簡単な仕事だった。  『利用者に差し伸べる暖かい手』  そのフレーズが五箇所に謳われ、それを月村くんはことごとく『温かい手』に打ち替えて、デザインしたのだ。  「『暖』を『温』に変更しました」と付箋に書いて校正紙に貼り、代理店の営業にも説明していたのだが、付箋は剥がれ落ち、代理店の営業は右から左の子どもの使いで、施設の担当者はデザインだけを見てGOを出し、表紙にフィルムコートまでして納品し、代理店の営業部長の大音声(だいおんじょう)が応接室の窓を震わせたのはその一週間後だった。 「誤字じゃないでしょう?」 「入試問題じゃないのよ」 「『暖』の字使った看板が国道沿いに、デカデカと三つ並んでんだよ」 「ホームページにも使ってたし。だれも知らなかったけど」 「それで始末書ですか」 「きわめて文学的な始末書を書いたよ。いや、あれは詩だな。人生は暗い夜の果の旅だ。カミュを超える不条理文学の傑作と言ってもいい」 「デザイン十万、印刷七万、営業経費三万、まるっとトバしといて、なにが暗い夜の果の旅だ」 「で、要是正」 「どうやって是正するんです?」 「基本的にもらったテキストは触らない。代替案を提案するにとどめる。その際、ぺらぱらの付箋は使わない。A4サイズの紙に十ポイント以上の文字で、明瞭に説明する」 「その際、バーカとは書かない」 「顧客の心象には配慮した文章を書くこと。書面は、玲爾さんか美遥さんの承認を経た上で提出すること」 「ただ、まちがった日付と曜日の訂正はその限りではない」 「はあ」 「大人の仕事とは思えないでしょ?でも損金が発生した以上仕方がないのよ」 「美遥も書いたよね」 「却下されたけどね」 「どんな間違いだったんですか?」 「森の奥のレストランのパンフレットでね。森林浴をしながら食事を楽しめるって言うのが訴求点なの。ただ、クライアントから「さわやかなオゾンを胸いっぱいに吸い込みながら」って挿れるように言われてね。  オゾンって生臭いでしょ。実際、レーザープリンターとかコピー機には臭いを抑えるためオゾン・キャッチャーがついてるし。それに有毒だから、胸いっぱい吸い込んだら死んじゃうわよ。  だから、フィトンチッドのお間違いではないでしょうか、って穏やかにご提案させていただいたの」 「却下」 「有害な紫外線から生命を守るオゾン層ってイメージがあるからね」 「ステキなレストランなんだけどね。行く気にならないのよ」 「それでいいんですか」 「いいもなにも、向こうの意向じゃどうしようもないでしょ」 「ま、少なくともこちらが、知りながら害をなしたってわけではないから」 「それ、知ってます。ヒポ…なんでした?」 「ヒポポタマスだよ」 「ヒポクラテスです!『知りながら害をなすな』日本じゃ、ピーター・ドラッカーが引用したことで知られてるような気がしますけど」 「おお、さすが、トリヴィアなら月村だね」 「害をなすようなことがあるんですか?」 「あると言えばある」一瞬、月村くんが美遥を見たような気がした。「実害と言われると、どうだろう微妙だな」 「例えば?」 「婚約指輪はいくら?」 「給料の三か月分」 「みんなそう言うよね。それ、日本デビ○スのコピーだから」 「そうなんですか!?」 「そうだよ。スイート○○ダイアモンドとかもそう。デビ○スは、当時ダイヤモンド市場の支配者だったし、そもそもロスチャイルドの傘下企業だしね。すばらしい成果を収めたキャンペーンとして、今だって広告代理店の新人研修じゃ必ず教えてるよ」 「月村さんは感心しない?」 「この前、じいちゃんが婚約する孫に『婚約指輪は給料の三か月分』って、教えてるのを実際に見てね。考えた。その孫に息子ができたら『婚約指輪は給料の三か月分』って教えるんだろうなって。一企業の思惑が延々と誰かの行動をきめてゆく」 「親のミームが子に祟る。ダイヤモンドは永遠の輝き。キャンペーンとしては大成功」 「そう、財津さんみたいに、少し距離を置いて自分の立ち位置を決めないと流されるぞ」 「びっくりですね。わたしなにも知らなくて」 「それを初心って言うのよ」  月村くんが笑った。 「自分がなにも知らないって思わせるのが、新人研修の目的なんだよ」 「説教臭い連中がまわりにウヨウヨしてるって教えるのも目的のひとつ。  以上で負の側面の教育は終了」 「財津さん、それはない」  ノックの音もなく、応接室のドアが開いた。 「みんなで茶話会ですか?」 「導入教育です!」  黒髪のアンディ・ウォーホルが、おみやげの菓子の包みを差し出した。 「じゃ、これから茶話会ですね」
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