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「よく食べるね」りんちゃんがシャルドネを注ぎながら言った。「顔色もいいし」 「なんか、最近、体質が変わってね」 「安心した」長袖ブラウスの腕をさすりながら、りんちゃんが美遥を見つめた。「もう大丈夫だね」 「どういう意味?」 「今年のはじめ、自分がどんな顔してたか、憶えてない?」  りんちゃんが腕をさすった。痒いのだろう。  長袖の下にはたくさん赤い発疹がある。顔には(しるし)はでないけど、りんちゃんはひどいアトピーだ。強い日差しや寒さ、海水にさらされると症状が悪化する。食べ物のアレルギーも多い。以前はアワビやハマグリを食べると、腹痛を起こして寝込んだ。いつのまにか、貝は食べられるようになったが、今はブロッコリーとエビだ。どっちも大好きなのに食べられなくなった。  ふたりとも肉体的に「負け組」なのだ。  ふたりで酒になると、美遥の部屋で、肴は二人でつくる。店では食べられないものが多すぎる。 「先生がね、発狂寸前のオフィーリアって言ってたんだ。  美遥はどうしたんだ、失恋でもしたのかって。  鈍いにもほどがあるけど」 「わたしが川に身を投げるの?」 「四分の三はあたってたじゃない」  挑むようにりんちゃんが美遥を見た。  はずれだよ!酔いにまかせてそう言ってやろうか。  わずかな時間、美遥は思った。自殺は進行中!  言えるわけがない。  前のデザイン事務所でペアを組んで五年。美遥のコピーとりんちゃんのデザインは、コンペで八割三分の勝率を叩き出してきたのだ。 「でも、もう安心。顔色いいし、よく食べるし、走ってるし」  また、りんちゃんがブラウスの腕をさする。 「もしかして、わたしが心配で、泊まりに来てた?」  今年になって、りんちゃんは頻繁に美遥の部屋に泊まるようになった。りんちゃんのマンションはすぐそばだから、どんな時間でも帰れるのに泊まっていった。  いたずらを見つけられた子どものような顔で、りんちゃんが小さくうなずいた。 「ごめんね、心配させて」  なんでこんなひどい嘘をつく。  二年前の冬、りんちゃんと美遥は勤めていたデザイン事務所をクビになった。  シクラメン事件。  この街のデザイナーやコピーライターで、知らないものはいない爆笑事件だ。  締め切りを守るため二人で徹夜して、それをやたら経費にうるさい「女帝」と呼ばれる経営者に咎められた。 「照明に暖房、材料費、いくらになると思っているのよ!」  徹夜はバレないはずだった。残業も申請しなかった。完全犯罪を目指していたのだ。なのに見破られた。 「二人で徹夜したでしょ!」  りんちゃんも美遥もシラを切り通せなかった。  デザイン室のテーブルで、鉢植えのシクラメンが咲いていたのだ。  明解な推理だった。  夕方帰るときにつぼみだったシクラメンが、朝来ると咲いている。  シクラメンは気温が高くないと開花しない。  夜、誰かが事務所で暖房を長時間入れていたにちがいない(夕方六時に切れるようタイマーを自分でセットするから、スイッチの切り忘れはありえない)。  あの二人は昨日と同じ服を着ている。  徹夜したのだ。  明白な業務命令違反!  どんなに少額でも、経費が絡むと女帝の頭脳は冴える。 「おまえが二十面相だ!って、あたしなら言うけどね」と、りんちゃんは笑ってみせた。「あのババア、ボーナス出したくなかっただけなんだよ」  ふたりとも冬のボーナスをもらいそこねた。  締切を破りかけたのは、美遥が気管支炎で二日休んだせいだ。  ふたりいっしょに失業者になった。  狭い業界ではウワサが広まるのは早い。  三日後、美遥は「先生」の事務所から誘いを受けた。  黒髪のアンディ・ウォーホルと呼ばれる洋画家の先生。お高いスーツと派手なプレゼン。なぜだかISO9001QMSを認証取得したデザイン事務所。  美遥は、ふたりペアじゃないとだめだ、と言い張り、翌年からりんちゃんと共に、先生の事務所のアソシエイトとして働くことになった。 「先生とあのババアは、コンペや相見積りでいつも衝突するからね。嫌がらせしたかったんじゃない」
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