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「なぜ、コピーライターになった?」玲爾(れいじ)があきれたように言った。「コピーライターの仕事なんか、ずっと昔に終わってるだろ」  玲爾はこの事務所のエディトリアルのチーフだ。 「終わってますか。いつ終わったんですか」 「小泉今○子が、ベン○エースを買ってください、って言ったときに」 「いつの話です?」  携帯で検索をかけた。二十世紀の話だ。美遥が生まれる前のコピーだ。 「……たしかに、『買ってください』が通用するなら、コピーライターなんかいりませんね」 「で、なんでコピーライターになった」  子どものころ、ベッドの中で本ばかり読んでいたからだ。身体が弱かったからだ。布団の国の女王は、五十メートル走で一番にはなれないが、国語なら一番になれたからだ。作文が上手だったからだ。それしかできなかったからだ。普通の会社では面接ではねられるからだ。  一瞬、りんちゃんにしか打ち明けたことのない気持ちが、口を衝きそうになった。  ありきたりの答えで逃げた。  逃げたつもりだった。 「コミュニケーションで仕事ができればいいかなっと思って」 「コミュニケーションってなんだ?」  そこに斬り込む? 「えぇ……キャッチボール」 「相手の取りやすいところに投げて、相手が取りやすいところに返してくれる?本気でそう思ってる?」 「ああ……ちがいます?」 「道の向こうから、ウチの先生が歩いてくる。きみは『おはようございます』と言う。これはコミュニケーション?」 「ちがいます?」 「いや、ちがわない。そのとき、きみはなにをした?」 「……なにって、あいさつです」 「きみは先生の注意を引いた。視線を自分にひきつけた。昼飯はなにを食おうと荒れ狂う、高度な思考を中断させた。先生は足をとめた。  これが取りやすいところに投げたボール?  さあ、きみは相手の足を止めた。次になにが起こる」  もちろん、正解は先生からの『おはよう』だ。  しかし、『おはよう』なんか言わせるもんか。  反撃のチャンスなのだ。 「ベン○エースを買ってください!」  玲爾が笑った。ネズミを捕えたネコの笑いだ。  罠だった。  お望みの答えを与えてしまった。 「そう、それがコミュニケーション。  相手の注意を引く。している何かを中断させる。部屋のすみに追い詰め、ナイフを突きつけて、ベン○エースを買ってください。  それがコピーライターの仕事。  で、なんでコピーライターになった?」  これが新しい職場の最初の十分間。地獄はさらに十分続いた。 「どうだった、あのチーフ」昼休みにりんちゃんが訊いた。  部屋のすみに追い詰められ、ナイフを突きつけられたら、浮かぶ言葉はひとつしかない。 「助けて、りんちゃん!」  なぜ、こんなコピーを書いた?  なぜ、こんなヴィジュアルを指示した?  なぜ、こんな構成なのか、こんなロジックなのか?  ISO9001の手順書に従う限り、どんなラフもカンプも、地雷原を抜けずに、クライアントへ渡すことはできない。  クライアントへの提出前に、エディトリアル・チーフ(サディスト)の承認を受ける。チーフが不在の場合、先生の承認を受ける。と、ISO9001のデザイン・レビュー(DR)に規定をいれた、マゾヒスト(おそらく)がいるのだ。  なぜ、なぜ、なぜ。  自分の定見と見識が、揺らぎそうになるまで繰り返される「なぜ」。終わりなき認識論(エピステモロジー)。  高度に発達したエピステモロジーは拷問と区別がつかない。
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