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5
プレゼンの結果が出た日、りんちゃんは親戚の不幸で仕事を休んでいた。
「怪獣のストーリーに決定した」電話を終えた玲爾が言った。「文案を煮詰めて、ストーリー・ボードをつくろう。イラストのサンプルを三案、あと十日で準備する」
やっぱり、そっちか。勝てないのか!
不意に気道が狭窄して、目がくらんだ。
部屋が回った。
喉が笛のような音をたてた。
玲爾が支え、椅子に座らせとようとしたが、立ったまま、デスクに両手をついて身体を支えた。楽な姿勢はこっちだ。
胸郭は大きく広がるけど、空気はちっとも入らない。
「吸入器は?」
ロッカーのなか。しゃがれた、つぶやき声は、みじめに途切れ途切れだ。
イラストレーターの京子さんが、更衣室から美遥のバッグを持ってきてくれた。
吸入器を口に差し込み、息を吸いながらワン・プッシュ。
気管支拡張剤の冷気が喉の奥を叩いた。
もう一度。
効かない。
禁止されてる三回目をワン・プッシュ。
さらに、もう一度。
ようやく気管支が拡がった。音をたてずに、呼吸ができた。
こめかみが、ひどく疼いた。口中が苦い。涙があふれた。
呼吸くらい誰でもやってるじゃないか。
なぜ、こんな薬に頼らなければならない。
なぜ、逃げられない。
望んでこんな身体に生まれたわけじゃない。
わたしも、りんちゃんも、あの哀れな怪獣も。
玲爾が紅茶のカップを渡してくれた。
ベルガモットが香った。アール・グレイだ。
熱い。そして、濃い。
半分ほど飲むと、口の苦味が消えた。動悸が治まった。こめかみの疼きが去った。
「これ、先生専用の紅茶ですよ」
大丈夫、普通に声は出る。
「バレやしないだろ」
「匂いでバレバレです。出がらしはポリ袋に入れて、きちんと口を結んで捨てとかないと。クラシック・リーフは高価いんです」
「あれ、高価いのか?」
「一缶でわたしの年収の五倍です。しかも、こんなに濃く。スプーンが立ちますよ」
美遥は立ち上がった。大丈夫、普通に立てる。
「どこに行く。休んでろ」
「ストレーナーを洗ってきます。目指すなら完全犯罪です」
遅かった。匂いをかぎつけた、先生の尖った声が給湯室で上がった。
「誰です、私のお茶飲んだのは?ギロチンと縛り首、どっちがお望みかな」
「ギロチンでお願いします!」美遥は叫んだ。
「わたし、マリー・アントワネットの生まれ変わりですから!」
まわりのデザイナーたちが笑った。
「悪い冗談みたいだな」玲爾が呟いた。「さっきは死ぬかと心配したのに」
わからないよね。
ちゃんと立てるのが、どれほどうれしいか。
大きな声が出せるのが、どれほどうれしいか。
どれほど、吸入器を憎んでいるか。
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