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「美遥が読めばよかったのに」タクシーが動き出すと、京子さんが言った。「あなたが作ったお話なんだし、今日で最後なんだし」
「京子さん巧いじゃないですか。さすが、朗読ボランティア。あの調子で『給食番長』とか読んでるんでしょ。
それに、お母さんみたいな人が読んだほうが、子どもには受けます」
「きれいなおねぇさんが読んだほうが喜ぶわよ、子どもは。特に女の子はね」
「お子さん、何人でしたっけ」
「男、女、女。中三、小六、小四。PTAに何年かかわることやら」
「楽しいでしょ」
「毎日、バイオレンス・ムービー、終わりなき消耗戦よ。
でも、話はそらさないでね。
なんで、美遥が読まなかったの?あなたも、りんちゃんも、あれだけ熱いれてたのに」
うまくいくと思ったのに。
「百回以上読んでますから。納品のときぐらい、別のひとが、上手なひとが読んでもらって、あの子を送ってあげてたくて」
「あの子?あの子。なるほど、なるほど、読むたびに、あの子が死ぬのが悲しくなるのね。それで、りんちゃんも今日は立ち会いに来なかったのか」
「それ、穿ち過ぎを通り越して邪推に近いです。
……あれは、わたしとりんちゃんの真打ちではなかったので」
「真打ち?」
「奉納するとき、刀は二振り打つそうなんです。奉納するのは二振り目、それが真打ち」
「へぇ、『真打ちあとから』ってそういうことなの?」
京子さんがうなずいた。
「二週間前かな、残業してたら、玲爾がふらっとわたしのとこに来て、読んでくれって言うのよ」
「なにをですか」
「あなたたちの真打ち、ミーカとコー。どう思うかって訊くから、いいわね、って言ったら、「俺もそう思う。でも、落ちた」ってボソっと言って、ふらっと出てった」
京子さんは美遥を見つめた。
「おどろいてる?」
考えもしなかった。
「あなたが発作おこしたとき、あいつも同じくらいのダメージ受けたってこと」
タクシーが渋滞に巻き込まれ、戻ったときは七時に近く、事務所には人気がなかった。金曜日の夜だ。引けは早い。
エディトリアルで残っているのは玲爾だけだ。りんちゃんもいない。
「納品してきました」
「五分待て。アップロードしたら、俺も出る。一杯おごるよ」
デスクの上に広げた、赤でチェックが入った校正紙は、地元の経済誌インフォメーション・アリーナだ。
「校了、まだだったんですか」
「一箇所だけ確認待ちで、さっきオーケイになった」
「順子さん、この仕事がいやで辞めたんでしょ。適材適所の配置考えなきゃ。自分の負担が増えるだけですよ」
「彼女のデザイン見た?」
「かわいいのばかり、デザインしてましたね。かわいいイラストも描いてたし。彼女の趣味でしょうけど」
「仕事がファンシィ・グッズのカタログとかランディング・ページのデザインばかりなら、それでいい。
で、十年後はどうなる?二十年後は?と、財津に言われた」
「りんちゃんが?」
「そう、それでアリーナの担当にした。定形のページは多いけど、デザインの余地はいろいろあるから、勉強になるだろうと」
アップロードが終わり、玲爾は、MACをシャット・ダウンした。
「こう言われた。わたしは財津さんみたいに自由にデザインがしたいんです」
「わかってない」と言ったのは、ふたり同時で、きれいにユニゾンだった。苦笑まで同時に浮かんだ。
「財津と君が自己実現できて、なんで自分はできないのか。そんな口ぶりだった。やりたいことと、やるべきことの区別がついてない。ひとの仕事を見ていない。見たいところしか見ない。せっかく、財津が育てようとしてたのに。
若いからね。専門学校出て、さあ、今日からわたしも一人前のデザイナー。そんなノリだ。失敗した」
「慈善事業じゃないですから」
「潰しても出てくるのが個性だ。やりたいことやってる?なにを勘違いしたら自己実現なんて出てくる」
壁のアナログ時計が小さな音を立てた。七時だ。
「行きましょ。最近はお店閉まるのはやいから」
この時間行ける店は限られる。
立ち呑みのワイン・ショップで、美遥はシャルドネ、玲爾はペルノ・アブサンのソーダ割りを呑んだ。
「おいしいですか、それ」
「慣れれば。むかし、アブサンに憧れてね。幻覚作用があるから禁止された酒だろ。それで、代用品でもいいからと思って、試したんだ。秩序に挑戦するような快感が少しだけあった」
「まがいものお酒で秩序に挑戦。それが自己実現?」
玲爾がカウンターに額をつけるように、身を折って笑った。
「幻覚もない。ヴィジョンもない。実にささやかな自己実現。ひとのことは笑えない。今は妥協の神さまのよき下僕だ」
「やりたいことだけやってたら、妥協できなくなりますよ。順子さん、引き止めればよかったのに」
「ウチの先生も気持ちはわかるんだよ。引き止めようとはしたんだ。
あのデザイン事務所自体が、絵じゃ食っていけない画家がつくった妥協の産物だからね。
先生の幸運はデザインと商売のセンスに恵まれてたことだ。
君がパンフとかカタログとか編集してるチューリング・システムズ。何年も前にロゴを作ったときは、打ち合わせの場で、ロゴを三案、鉛筆で書いて、マーカーで色つけて、オーケイもらって、名刺、封筒、レターヘッド、看板ほかCI一式、まとめて六百万の契約をもぎ取ってきた。カタログ、パンフレットの制作費、それに印刷費に二十パー以上乗せるから合計で一千万超える売上。そこまで、わずか三十分。
お高いスーツに派手なプレゼン。あの眼鏡で高笑いだ。
それでもね、あのひとは、雪が振る日は事務所を休みにして、絵を描きにいく」
「雪が降る日、ですか?」
「ここらは、めったに雪が降らないから、雪景色が描ける機会を逃したくないんだよ」
「あの黒髪のアンディ・ウォーホルが?」
「その日は、アンディ・ウォーホルを休んで、ただの絵描き。そんな日が何日もあるんだろうね、あのひとには」
美遥は、ダウンを着て、キャップをかぶり、スケッチブックを持つ先生を想う。マイボトルに熱いアールグレイ。いつもと違う顔を見せる風景。いつもと違う眼差し。あの眼鏡は変えるんだろうか。
「そんな時間はあります、玲爾さんには?」
「睡る前の三十分とバイクに乗ってる時、かな」
「ああ、あのごついタイヤのバイク」
「あれでね、誰も通った跡のない雪山を登ると、冬を征服したような気持ちになる」
「できるんですか?」
「なにが?」
「冬を征服」
「いつも、滑って転ぶ」
「危ないでしょう。命を縮めても、愉しむ価値はありますか」
玲爾はグラスを空けた。
「君はどうなんだ、エディトリアルの王女さまは?」
「なんです、それ?」
「若い連中は君をマリーさまと呼んでる。マリーさまからダメ出し食らったって、何度も聞いた」
「あいつら、まとめて断頭台に送ってやる」
「で、君はどうなんだ、そんな日はあるのか?」
「さあ」美遥はワインを飲み干した。「家族を捨てて南の島へ渡るポール・ゴーギャンのような情熱は、わたしにはありませんね」
「いつも、大げさな話でごまかすな、君は」
「自分の話をするのがきらいなんです」
「なぜ」
空っぽな人間だからです。それは言わずに、空のグラスを振った。
「出ましょうか。お店閉まりますよ」
「もう一杯、飲みたい」
「そう言えば、今日はバイクじゃないんですか?」
「今日は近所の友だちに送ってもらった」
「帰りは電車?」
「君が泊めてくれなければ、そうなる」
美遥は鼻で笑った。
「いつもそうやって口説くんですか、女の子を」
「まさか。自慢じゃないけど、酒を呑んで、誰かを口説いたことは一度もない」
「ターゲットを誤るから?」
「相手も自分も素面じゃないと、いやだから」
「わたしがそれを信じるとでも」
「信じてるだろ」
なぜだか、美遥はうなずいた。
「じゃ、泊めろ」
「やぶさかではない、と応えたら、今夜一晩わたしの奴隷になりますか?」
「やぶさかではない」
「奴隷なら、もっとかわいい返事をしてください」
「王女なら、もっと居丈高にふるまってみせろ」
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