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 美遥が料理をする間、玲爾は、グラスを持ったまま、壁一面を占める棚に並ぶ本の背文字を、ゆっくりと追っていた。  本好きのすることは、みな同じだ。  これはおもしろいのか、なぜこの本を読んだのか、なぜこの作家とこの作家が隣り合わせなのか、これを持っているとは思わなかった、なぜこんな高価い本を買ったのか、この絶版本は今じゃオークションで一万円だ。  言うことも変わらない。  違ったのは、棚と天井の間に並ぶ、A4サイズほどのキャンバスアートを見たときだ。 「ミュシャ、スラブ叙事詩?」  異民族の襲来に怯える男と女、空の高みで戦う神々、罪なく追われ、焼かれた故郷。  絵を見上げ、考え込んでいる。 「女ならアールヌーボーを飾るもんだろ、って言わないんですか」 「それが聞きたいなら、言ってやってもいいが」 「かわいくない言い方」  美遥は料理をテーブルに並べた。クリームチーズとベーコンのトマト詰め、アボガドサラダ、残り物のミートソースと餃子の皮のラザニアもどき、チキンソテー、できあいのキッシュ、アンチョビのペーストを塗ったクラッカー。冷凍庫で強引に冷やしたシャルドネに、グラスをふたつ。  向かいあって、グラスを合わせると、本や映画の話題から、なんのきっかけか経済学にもつれ込んだ。玲爾も美遥も経済学部出身だ。話が途切れない。  アダム・スミスの呪い、ロスチャイルド家が解放したショゴス、マルクスのネクロノミコン、ケインズの悪魔祓い、フリードマンが放つティンダロスの犬、生贄にされるスティグリッツ、邪神MMT理論の召喚。  世界の惨状を、陰謀論とラヴクラフトで甘みをつけ、笑いあった。  すぐにシャルドネが空になり、赤ワインを開けた。いつもは料理に使っているスクリュートップの安いワインだ。  笑いが引くと、玲爾が居間を見回し言った。 「賞状を飾ってないな。去年の最優秀コピーの」 「エムケイ・トランスポートですか。あれは、辞める時、赤ペンでバツ入れて女帝のゴミ箱に放り込んできました」 「それにテレビがない」 「見たいですか?ちっさなのがベッドの脇にありますけど、寝室は男子禁制なんで」 「テレビは見ない?」 「朝、ニュースを少し」 「お笑いは?」 「玲爾さんは見ます?」 「笑うために何かをするのは苦手だ」 「おかしさが生まれるのは」美遥は静かな声でいった。「落ち着いた、乱れのない心に落ちてくる場合に限られる」 「認めるにやぶさかではない」玲爾がおごそかに言った。  不意をつかれた。美遥は吹き出し、声をたてて笑った。口元をナフキンで拭った。自分の言葉通りのタイミングで反撃されるとは。 「今のは、誰の言葉?」 「……バシュラールか、ベルクソン……忘れました。正確な引用でもないし」 「そう言えば、本に付箋を貼ってないな。事務所じゃ、あれだけ線を引いて、付箋紙を浪費するのに」 「自分の本には貼らないんです。鉛筆も使いません。」 「忘れたくない文章はどうする」 「知りたいですか?」  玲爾がうなずくと、美遥は相手の右手を取った。 「爪でね、線を引いて(しるし)をつけるんです」人差し指の爪を玲爾の手の甲に強く走らせた。「こんなふうに」  なにをしてる?  酔ってる? 「痛いな、俺と本の見分けがつかないのか?」 「わたしの本棚に並べてあげましょうか」 「レイモンド・チャンドラーの隣ならいいな」 「萩尾望都と竹宮惠子の間に挟んであげます。どんな夢が見られるでしょうね」 「マンガなんか、ないじゃないか」 「寝室にあるんです。『ベルサイユのばら』もあります」 「さすが、マリーさま。男子禁制のプチ・トリアノンか」 「女はいくつになっても宝塚ですから」  ワインが過ぎた。  これ以上しゃべるな。誘ってると思われる。心を閉ざせ。 「なぜ、あんな絵を飾ってる」玲爾が背中のスラヴ叙事詩を仰ぎ見た。「いささか昏くないか」  なぜ、今、訊く?  一番もろくなった瞬間に。  一番ひとりでいたくない時間に。  なぜ、こんな近くにいる。  一時間前なら笑って逃げられた。三十分前でもごまかせた。  なぜ、今、上手に嘘がつけない。 「あれは、弱いひとたちの絵です。逃げるひとたちの絵です」  言葉が(はし)ると、もうワインのせいにはできない。 「逃げても勝てないひとたち!希望しかすがるもののないひとたちの絵です!  あれは…」 「もういい」玲爾が美遥の手を取り、立ち上がった。 「あれは…」 「もういい!」  美遥は玲爾の手を振りほどいた。 「あれは、わたしの自画像です」  うつむいて、つぶやくように言った。  玲爾が息をついた。カウンターに立ち、ケトルを火にかけた。 「コーヒーを淹れよう」 「紅茶しかありません」  お湯が沸くまでの時間が耐えられないほど長い。 「これか?」玲爾が黒い缶を開けた。「アールグレイ?」  ベルガモットの香りが拡がった。 「クラシック・リーフは高価いから、それを試したんです。そうしたら、気に入ってしまって」  ガラスのサーバーにお湯を注ぎ、鎖のついたティー・ストレーナーを落とすと、待ちかねたように、茶葉から琥珀の渦が溢れ出す。ストレーナーを逃れたリーフが二三枚、解放されたよろこびに舞い上がる。 「この時間が好きです。色が好きです。動きが好きです。いつも、できあがるまで、じっとみてます」 「落ち着いた、乱れのない心?」 「わたしが求めるのはそれだけです」  美遥が紅茶を注ぎ分け、ふたりとも何も言わずにお茶を飲んだ。  飲み終わると、玲爾が皿を流しに運び、袖をまくった。 「皿を洗うよ」 「電車がなくなります」 「泊まれって言ったじゃないか」 「酔ってます?」 「酔わせただろう」  お茶を飲んだら帰ると思っていたのに、なぜ帰らないのだろう。なぜ、それがうれしいのだろう。 「今日言ったことは忘れてください」 「忘れるわけがない」玲爾がしずかに右手をかざした。「(しるし)をつけたじゃないか」  手の甲に走る一筋の線が、後ろめたいほど赤い。 「痛みます?」 「君の本は痛いって言う?」  美遥は首を振った。  拒む理由が見つからないのが、なぜか楽しくなってきた。 「本棚に並べましょうか。エミリー・ディキンソンの隣でいいですか」 「酔ってる?」 「酔わせたでしょう?」 「紅茶をもう一杯飲もう」 「いいですよ。それから、いっしょに…」美遥はケトルに水を注ぎなら、笑い出した。 「なにを笑ってる」 「こんな時間に男の人とふたりきりなのに、ちっともロマンチックじゃないんだもの」 「言ったろ、酒を呑んで口説く趣味はないって」 「だから、女はいくつになっても宝塚なんです、って」ケトルを火にかけた。「お茶のあとで、いっしょに…」また笑いがこみ上げてきた。自分の言葉が今世紀最高のジョークに思えた。「いっしょに…」 「いっしょに?」 「なかよく、並んで、歯を磨きましょう」 「一日の締めくくりにはふさわしいけど」言いかけて、玲爾が吹き出した。「宝塚どころか幼稚園の標語じゃないか。ロマンの欠片もない」
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