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 夜の雪道は誰も走らない。  踏みつけた雪は、アーマーの靴底に重い層をつくり、体重を乗せると一瞬で砕け、無様に滑る。層は一歩ごとにでき、溶けて、しみ込んでくる。もとより美遥(みはる)のランニング・シューズに、防水性はまったくない。  今年一番の寒波。氷点下。年に一度の大雪。  薄いゴアテックスのウェアにタイツ、手袋、ネックウォーマー。足を止めれば、五分で風邪をひく。下手をすれば気管支炎が再発する。  今、再発すれば肺炎は確実だ。  なのに走っている。  大きなストライド。滑っても速さはゆずらない。一歩一歩、雪を刻んでゆく。  呼吸がすべてだ。鼻から吸い、口から吐く。深く、長く、確実に。走るときには意識して呼吸する。  五秒以上かけて息を吐き切る。吐き切ってしまえば、吸うのはなりゆきにまかせる。自然に呼吸が深くなる。  呼吸を変えると、子どもの頃から手放せなかったステロイド剤の吸入器は要らなくなった。  走り始めたころ、百メートルごとに吸入器に頼った。今では一時間以上走っても喘鳴は出ない。吸入器は部屋に置いたままだ。  魔法にかけられたようだ、と一度思ったが、すぐに自分で取り消した。  これは呪いだ。  身体はいつも美遥を裏切る。  走りはじめたのは死ぬためだ。  夏の熱気のなか、全力で走って熱中症で倒れれば、誰も自殺は疑わないだろう。りんちゃんも親は悲しむだろうが、美遥が自殺したと思うより、事故で死んだと思うほうが、いくぶん慰めにはなるだろう。そう信じた。  初めて走った日、五十メートルも進まないうち、横腹が痛みだし、それ以上進めなくなった。走るのは脚の筋肉だけではない。腸腰筋がまるでだめなのだ。  あたりまえだ。  大学を出るまで、体育と名のつくものは、ラジオ体操以外、見学で済ませてきたのだから。  誰がこんな弱っちい身体に望んで生まれるものか。  いつも、なにをやっても、身体には裏切られてきた。  走ろうと思えばこの体たらくだ。  フルレンジ・ノンロック・クランチを始めた。軽く膝を曲げ、床に寝そべり、両腕を前に伸ばして、ゆっくりと上体を起こし、腹筋に力を込め、上体を降ろす。ワンセット十回、一分休んで三セット。一週間続けると横腹の痛みは消えた。  吸入器を使いながら、二週間で、一キロ走れるようになった。  早足の速さで一キロ十分。遅い。  しかし、身体は変わり始めていた。  走り出して一週間後、夜の七時に夕食をとって、九時に走ると、十一時に大きく胃が鳴った。  自分の身体がたてる音とは思えなかった。  五分後、我慢できずに、朝食用のパン・ド・ミを薄切りにして、コンソメスープにひたして食べた。どうせ体重を気にする必要はない。  三週間目の夜はひどい雨だった。  美遥は五分おきにカーテンを開け、外の様子を確かめた。読んでいた本は一ページも進んでいない。  なにをしているのだろう。  雨が上がるのを待っている。窓を叩く雨を憎んでいる。  走るのが楽しくなっていたのだ。  楽しい?  身体はいつも美遥を裏切る。
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